紛れもなく、複数形 - 映画『哀れなるものたち』
エマ嬢×ランティモスの新作ということで映画『哀れなるものたち』"Poor Things" ('23)を観てきた。ふたりの蜜月は前作『女王陛下のお気に入り』('18)に引き続いてだが、系譜としてはランティモスの『ロブスター』に引き続く印象がある。また、ストーンが母になって最初の作品がこれ、というのも何とも興味深い。エマ嬢×ランティモスで3作品目が始動中のようだが、本当にいつまででも蜜月を築いてください。ネタバレ記事です。
あらすじ
医学生のマッキャンドルス(演:ラミー・ユセフ)は解剖学を教えるゴドウィン・"ゴッド"・バクスター(演:ウィレム・デフォー)から謎の仕事を頼まれる。バクスター邸にはベラ(演:エマ・ストーン)という娘がいたが、身体は大人なのにその行動は奇怪で幼稚だった。ベラの秘密を知ってその行動を実験ノートに記すうち、マッキャンドルスはゴドウィンの願いを受け入れてベラと結婚することを決意する。しかしながら、自分をバクスター邸に縛り付ける条文を知ってか知らずか、ベラは世界を見たいと言い出し、彼女を唆す悪徳弁護士ダンカン・ウェダバーン(演:マーク・ラファロ)と放浪の旅に出てしまうのだった……
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※以下「パンフレット」と記載する場合は、「サーチライト・ピクチャーズ issue Vol.26 哀れなるものたち」を指す。
これは間違いなく『ロブスター』の系図にあるランティモス作品
奔放なベラの周りで繰り広げられる何ともグロテスクな、というかかなり醜悪なセックスシーンを観ながら、ああこれはランティモスの中では『ロブスター』の次にあるのだろうな、と思った。パンフレットを読むと、原作者であるアラスター・グレイにこの作品の映画化を頼み込んだのは2011〜2012年頃というので(パンフレットp.8)、実は『ロブスター』の方が『哀れなるものたち』の後にあるのかもしれない(『ロブスター』は2015年公開作品)。両作品のセックス描写は本当に似通っていて、きっとランティモスの中でのライフワークなんだろうなと思う。
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『ロブスター』はカップルでいないと動物に変えられてしまう世の中で、何とかしてパートナーを見つけなくては、と中年男性がもがく話であった。つまりは性的に成熟しきった大人が、求めていない性生活に舞い戻る話である。『哀れなるものたち』はこれと逆で、幼稚な知性がどんどんと目覚めていく中で、性生活を切り口にする、という筋書になっている。ランティモスの中で、性生活は飽くまで、人生を見つめるための切り口である。
セックスの意味は、ベラが「発達」する中でどんどん変わっていく
神経発達を目の当たりにする自分の専門領域も相まって、ベラの「発達」していくさまはとても面白い。立位と歩行ができるのに巧緻運動はすこぶる苦手で、ぶん回し歩行みたいなぎこちない歩き方から始まる。顔面筋の使い方はかなり非対称だ(この辺はゴッドウィンが顔面神経核を繋ぐときに若干損傷していて、Waller変性しながら治るさまを見ているのかもしれない)。幼稚な行動は大変残虐で*1、ああこどもの行動など無邪気に見えてとっても残虐なんだなとくすくす笑わされる。その挙げ句にベラは自慰行為に目覚めるが、明らかに5歳くらいの知性でそこに辿り着くのは笑えるほど "早熟" だ。マッキャンドルスへの(ある意味歪んだ)プラトニックな愛と、ウェダバーンとの延々とした「熱烈ジャンピング」は相反するように見えるが、どちらもベラの中では繋がっているらしい。
ベラの「発達」と共に、セックスの意味はどんどんと移り変わっていく。これはランティモスが『ロブスター』や『女王陛下のお気に入り』で見せていた構図と同じだ。『ロブスター』では捨てられた男が保身のために愛のないセックスに走り、そこから逃げた先で、禁じられていたはずなのに愛のために生きてしまう。『女王陛下のお気に入り』では、アン女王をふたりの女官が取り合う中で、本当に愛のある関係はどちらなのか、女王が振り回されていく。その中で鍵になるのが、どちらもセックスなのだ(尤も、後者では時代も相まってやや抑制が効いているが)。
ウェダバーンと旅に出た当初、ベラは「熱烈ジャンピング」に耽るが、幼稚さゆえに貞操観念はがばがばで、誰彼構わず関係を結ぼうとする。普通に考えれば社会性の未熟さゆえの行動なのだが、ぱっと見はASD*2の「不適切な馴れ馴れしさ」らしく面白い。ただこの行動は、エッグタルトのシーンを見るに性欲だけに限らないらしい。どうやらベラは欲に至極正直に生きているのである。ウェダバーンは食べ過ぎてむかむかするのを知っているのでベラにやんわり忠告するのだが、どうなるのか知りたいのでベラは止められない……といったわけだ。いやはや本当に浪費で旅費が消えないのかだけ心配になる描写である。
ほとほと困った&ベラを独占したいウェダバーンは、船旅へと舞台を移すことにする。船旅では老婦人(演:ハンナ・シグラ)と皮肉屋ハリー(演:ジェロッド・カーマイケル)に出会い、ベラは書物を読むことを覚えて急速に知性を花開かせていく*3。哲学に興味を覚えて「熱烈ジャンピング」から距離を置くベラ。パリに降り立った後、その意味は以前の快楽から、勉学用の資金を得るためへとしたたかに変化する(この辺りの変化にウェダバーンが全くついて行けないのが滑稽だが、後述)。
売春を描くのはどうなんだみたいな意見もあるとは思うが、ランティモスとストーンの作品と思えば然もありなんというところだろう。先述の通りランティモスは人間の至極原始的な欲である性欲を、人生を見つめる切り口によく据える。一方のストーンは、セルフプロデュース作品たち(『バトル・オブ・ザ・セクシズ』、『クルエラ』など)でよく分かるように、たとえ世間に白い眼で見られようが、自分を貫く女性に明確なイエスを与えている。これはつまりベラの姿なのでは? パリで売春しながら医学生として生きる姿も、その知識を活かすラストシーンの描写も、賛否両論だとは思うが、ベラは自分自身を貫いている。こうやってセックスの意味がどんどん移り変わるのが本当に面白い*4。
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なお、エマ嬢は2021年の『クルエラ』後やや仕事をセーブしていたが、その間にデイヴ・マッカリーとの間に娘が誕生している。母になってまた考えることも変化したと思うが、その中でも活き活きとした女性像を描くことに心血を注いでいるエマ嬢は本当に美しい。
ランティモス・ストーン両方と蜜月を築く陰の功労者
そしてそんな世界を鮮やかに描くのが、オーストラリア人脚本家のトニー・マクナマラだ。実は彼、『女王陛下のお気に入り』('18)、『クルエラ』('21)に引き続いての今作脚本である。ランティモスもストーンも『女王陛下のお気に入り』で彼の技量に惚れ込み、互いに次回作へスカウトしたそう。今をときめくふたりが、自分の代弁者として同じ人物を重用するというのがよい。これら3つの作品の主題が互いに似通っているというのも納得だ。
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哀れなひとは、複数形
この作品の原題は "Poor Things" 。単数形の "Poor thing." で「お気の毒様」とか「可哀想な人」という意味なので(実際作中にもイディオムとして使用されていたような)、複数形になっている。邦題でもその意図が汲まれていたが、その名の通りこの作品には哀れなひとが何人も出てくる。
最も分かりやすい哀れなるものは、間違いなくラファロ演じるウェダバーンだろう。Poor Wedderburn(哀れなウェダバーン)、彼はどんどん変化していくベラについて行けない。
ウェダバーンは悪徳とはいえ弁護士なので、ハイインテリジェンスな人物で、社会の上層にいるはずである。うぶで何も知らないベラに目を付け、彼女を唆して自由にできる性的玩具に仕立てあげる。ところが彼の誤算というか小賢しさに留まる点というかなのだが、ベラは知らぬ間に学問を覚えてウェダバーンを大きく通り越した高みに辿り着いてしまう。そこで嫉妬と思い通りにならないもどかしさに狂ったウェダバーンの哀れさたるや。ベラを「変化させる」源たる本を、狂乱の余り投げ捨てる愚かさよ*5。これはつまり、マンスプレイニング (mansplaining) なつもりでいたのに、知性が追い抜かされてヤケクソになる男の悲哀を描いているのだ。そんなウェダバーンを、ラファロは実にコミカルに演じている*6。
ベラの相手つながりだが、彼女を観察し続けるマッキャンドルスも間違いなく哀れなひとだろう。ウェダバーンとは違い、(敬虔なキリスト教徒であるが故に貞操観念に厳しく)、ベラの急激な知性の華やぎも温かい目で見守っている。しかしながら、最も近くで最も慈愛に満ちた目を注ぎ、ずっと彼女を見つめているのに、顧みられない。ベラは彼のことを適当な遊び仲間くらいにしか思っておらず、その適当さは彼女が医学生になるほどの知性を身につけた後でも貫かれる*7。信仰ゆえに一途だからこそ余計に哀れだ。
死の淵から奇想天外な手段で引き戻されたベラ/ヴィクトリアが哀れなのは言うまでもなく、対してその創造主であるゴッドウィンも哀れであると言わずにはいられない。未熟なベラは奔放で欲を抑え込めず、結果として怒りに任せてゴッドウィンの試料をぶっ壊したり、彼の抑圧的庇護から逃げ出そうとする(そして実際に逃げ出してしまう)。どう見てもゴッドウィンの寛容さと束縛は互いに度が過ぎているが、その背景には実父に研究を名目に凌辱された過去があることは容易に推察できる。ベラを拘禁とも言える環境に留め置こうとしたことも、そうした実父との関係が影を落としているのではないかと思う。
裏方にもご注目を
先程トニー・マクナマラの話をしたが、ランティモスはアーティスティックな作品を撮る監督なので、その他のプロダクションもピカイチである。
まーた気が狂いそうな音楽を
ランティモスは音楽家のこだわりはないらしく、各作品で異なる作曲家を採用しているが、不協和音とか現代音楽が好きというのは一貫しているらしい。『女王陛下のお気に入り』の時もクラシックを多用しながら気が狂いそうな音楽を取り入れていて、さながら「体調がよいときに聴かないと死ぬサントラ」だった。
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今回音楽を担当したヤースキン・フェンドリックスは今年28歳の新進気鋭だが、そういったランティモスの好みをよく汲み取っている。いやあ今作のサウンドトラックも体調が良いときに聴かないと気が狂いそう。(褒めてるが)。音楽は、長調であたたかいのだが、スローペース過ぎるくらいでどこか狂っている。すっかりランティモス作品の常連たる撮影監督ロビー・ライアンの攻めたフレームワークもあり、映像と音楽の両面からぐわんぐわん揺すぶられる感じが本当にえぐい。
時代を考えると有り得ないほどの衣装の奔放さ
時代設定がヴィクトリア朝ということを考えると、今作でベラがまとっている衣装は信じられないほど奔放だ。今作ではエマ嬢の演技やマクナマラの脚本だけでなく、衣装やプロダクションデザインという点でも、ベラの奔放さが大変に表現されている。
ヴィクトリア朝の一般人の生活に関しては既に成書が沢山出ているのでそちらを読んでいただくとして、当時の女性は重く腰骨を締め付けるコルセットを着け、幾重にも重ね着をして素肌を見せないというのが一般的だった。こどもの知性のベラの服装はそこからいくつか引き算されていて、例えばコルセットなぞ身に着けていないし、髪も綺麗に結い上げずに伸ばしたままアレンジしている(当時の状況ではロングヘアを結い上げないなど有り得ない)。上はパフスリーブのドレスかと思えば下はズボンスタイルの下着だったり(リスボンの街を歩き回るシーンとか)、逆にダンスホールのシーンでは見事なスカートを履いているのに生の腕を剥きだしにしていたり、彼女のファッションは何かどこか足りないのだ。衣装は彼女の知性が調っていくことのメタファーにもなっている。その後、パリでの売春宿で実に奔放な格好なのはさておき*8、医学生になった後のショートコートにブーツ姿も大変凜々しいが、時代背景を考えるとややエッジが効いた印象がある。
ところが、これがしっかりと調った時、(【ネタバレ】をしてしまうと)もとい彼女が実際の世界に戻った時、彼女はヴィクトリア朝の女性たちを苦しめたコルセットよろしく抑圧の世界に引き戻されてしまう。ゴッドウィンに拘禁とも言える環境に閉じ込められていた時も、彼女の服装はどこかとんちきで、そこに彼女なりの自由があった。そう、衣装は女性たちの自由さのメタファーにもなっているのである。今作の衣装を手掛けたのはホリー・ワディントン。オスカーをはじめ数多の映画賞でノミニーになっているのも納得だ。
セット作ったの?
ランティモスが売れたなあというかサーチライトが熱心だというか、今作では元々ロケ撮影のはずだったのに、気付けば大規模セットを建てての撮影になったらしい(パンフレット22頁)。監督は1930年代の映画作品に憧れてセットを建てたというが(パンフレット22頁)、何というか、パイソンズのテリーG*9みたいなそんなプロダクションデザインを感じる。
セットを組むとスタジオの大きさで背景までの距離は大分制限がかかるが、今作ではそれを逆手に取り、シーン毎に異なる背景色を使って場所とベラの心境変化を表している。このセットは全部歩くと30分もかかる壮大なものだそうで、今作のためだけにこれだけのものを組めるというのが本当に羨ましい。今作では衣装だけでなく、プロダクションデザインでも色の使い方に注目だ。
おしまい
忙しさにかまけて観てから2週間放置していたが、何とか完成させられた。色々書きすぎて7500字相当なのは気にしないでください。ランティモスとエマ嬢は次回作 "Kind of Kindness" (原題)でも再タッグを組むようなのでもう既に楽しみだ。勿論最終盤になった賞レースでどこまで行くかも楽しみなところ。
パンフレットによると映画版では原作の最終章がばっさり切られているようなのだが、そういったところも含めて読んでみたい、と思いつつ、手に入らないので残念なところ。誰か恵んでくれると嬉しいのですが、いやまあほとぼりが覚めたころに自分で買おうかな。
今週のお題「大移動」
関連:哀れなるものたち / エマ・ストーン / ヨルゴス・ランティモス / トニー・マクナマラ / ウィレム・デフォー / マーク・ラファロ / ラミー・ユセフ / サーチライト・ピクチャーズ
*1:ゴッドウィンの解剖室で遺体損壊してはにこにこしたり、駄々をこねてゴッドウィンの大事な試料をぶっ壊したりとか
*2:自閉スペクトラム症; Autism Spectrum Disorder
*3:ちなみに、ここでハリーに出会ったことがベラが社会主義者になる一端だ
*4:なお、別件なのだが、パンフレットでエマ嬢が次のように語っていてなるほどと膝を打った。パイソニアンなので筆者の概念はどちらかというとヨーロッパ寄りなのだが、確かにパイソンズが揶揄していたアメリカの印象と合致している気がする。ヨーロッパ側の人間だからこそ、ランティモスの描写はそちら側になるのだろうなと感じた。
(奔放なセックスシーンについて、エマ・ストーン)「ヨーロッパとアメリカではセックスに対する考え方が異なっていて、そのことがヨルゴスを困惑させたようです。彼と知り合ってかれこれ7年になりますが、実話私もアメリカ人として、彼と同じような困惑を感じています。アメリカでは、様々な暴力や痛みが人々に向けられるのを見慣れているのに、なぜかヌードやセクシュアリティに関しては衝撃的に受け止められがちです。一方、ヨルゴスの方はそれが正反対なのです」——パンフレット、11-12頁
*5:奪い取ろうが奪い取ろうが、真に学びたいものはそんなものを超えてどこへでも抜け出すのに。……いや、そんなこと今年の大河ドラマ『光る君へ』でまひろ、もとい紫式部が言っていたな……
*6:うっかりネタバレしてしまうことで「おしゃべりラファロニキ」として有名だが、役者としてはピカイチである(?)。
*7:【ネタバレ】旅から帰ってきたベラは、当初の約束通りマッキャンドルスと婚礼を挙げることにするが、本当に大切に思っているならば、あの場で何も告げずにブレシントンのところへは向かわないだろう。勿論ベラの打算的行動なのだが
*8:まあ『ムーラン・ルージュ!』のニコール様でも観ておいてくれよ☞
*9:テリー・ギリアム。パイソンズ唯一のアメリカ人。まだおっ死んでない方、そして気付いたら高名な映画監督になってしまっていた方。死んだのはテリーJ、スパムのおじさん。どっちも監督としてピカイチ。