ある日何となくTwitterを眺めていたら、こんなツイートを見かけた。
——解剖? それもキリンの? しかも新しい構造を見つけたってどういうこと?
そうやって思ったら数分後にはこの本を予約発注してほくほくな気分になっていた。今日ご紹介するのは郡司芽久さんの『キリン解剖記』である。
好きも突き詰めれば解剖に行き着くらしい
現在国立科学博物館*1で研究員として働く郡司さんだが、キリンの解剖を始めたのは東京大学在学中のことである。出来るなら大好きなものを仕事にしたいと思った彼女は、そう言えば昔はキリンが大好きだったな、と気付き、キリン研究を主軸に据えることにする。そこで出会ったのが恩師・遠藤秀紀教授であり、彼との出会いをきっかけに、テーマはキリンの解剖へと移っていく。
遠藤教授の書いた本。『キリン解剖記』があまりに面白くて、完全にノリで買ってしまった(笑)。
献体を無駄にした不甲斐なさは次へのエネルギーに
とは言うものの、解剖男を自称する遠藤教授の研究室にいても、キリンを解剖する機会は非常に限られていた。それも何も、動物園で亡くなったキリンの献体に依拠していたためである。思うように解剖する遺体は手に入らないし、そうかと思えば盆も正月も関係無く解剖の日程が入るし、やっと手に入れたと思っても参考に出来る成書などほとんど無くて手探りの解剖になってしまう。1体1体が大変貴重なことは分かっていても、理想と現実はかけ離れている。
第3章では、対になって解剖した2例が象徴的に取り上げられている。1つ目は初めての「解剖」になったニーナ。2つ目は、後追いするように亡くなったパートナーキリンのシロ。ニーナの解剖では、勢い余って腱まで外してしまったり、自信を持って同定できた筋肉が皆無だったりという有様だった。70頁でこの時の感情を振り返った言葉には、なまじこの感情が分かるがゆえの苦しさを感じた。人体解剖でも全く同じことを感じる。献体を無駄にしてはならないと思いつつも、自分の至らなさ、根気の続かなさを痛感させられる作業なのである。それでも人体の系統解剖なら周りに沢山同級生もいるし、別の班へ観に行くこともできるけれど、キリンは基本的に目の前のひとつしかない。
「無力感」。その一言に尽きる。キリンの遺体に、解剖という名の破壊行為をし、何の新知見にもたどり着けなかった。知識の向上にも至れなかった。命を弄んでしまったかのような後味の悪さと罪悪感が、胸に重くのしかかってきたのを、今でもよく覚えている。
装置を通して得られた数字やアルファベットの羅列データではなく、生身の体を扱うことが、解剖の魅力でもあり、恐ろしさでもある。
——『キリン解剖記』70頁
リベンジのチャンスは意外に早く訪れた。後追いするように亡くなったシロも解剖できることになったのである。この時彼女は気持ちを入れ替え、ただ名前を追うのではなく、筋肉がどことどこに付着しているかをよく観察するように方針転換した。分からないなりにベストを尽くすことで、解剖数が少ないというハンディを乗り越えることにしたのである。……3ヶ月の系統解剖でんひーんひー言っていた昔の自分に読んで聞かせたい。
首の骨の解剖をするには解体が邪魔をした
この本でも大きく取り上げられている「8番目の"首の骨"」の発見。詳しい話は著作の中でも丁寧に扱われているし、何より先日ろんぶ〜んで取り上げられていたので敢えてさくさくめでお送りしたい。
www4.nhk.or.jp
哺乳類の首の骨、いわゆる頸椎は7個というのが一般常識である。しかしながらキリンはヒトやその他の哺乳類では考えにくいほどしなやかな首の動きを持つ。その動きを生み出す構造について知りたいというのはキリン解剖学者なら誰でも抱く疑問だろう。わたしもキリン解剖学者だったらそう思うに違いない。
ところがこの謎の解明には大きな障壁があった。キリンは背の高い動物なので、そのまま解剖室に運び込むことが難しい。何パーツかに解体されて搬入され、それから解剖作業が始まるのが常だった。そしてこの解体時に、最も解剖したい首の付け根の部分は解体線として利用されてしまうのだった。
この問題に、解体線をずらした遺体を準備することと、扱いやすい子供の遺体をCTスキャンすることで挑む。「8番目の"首の骨"」とは果たして何なのか? 本書いちばんの読みどころなので、敢えて結末はお知らせせずにおく。
解剖学という学問だからこそ
「8番目の"首の骨"」問題のミソとなった論文は1999年のものだという。112頁からのコラムでも、リチャード・オーウェンが1839年に発表した論文を読みながら、その内容に深く共感したことを記している。こういうのは研究対象も使う道具もそうそう変わらない解剖学だからこそできることかもしれない。こういう古い論文を読んでときめく作業には憧れてしまう*2。
本書の冒頭、18頁あたりからは、解剖の流れをざっくり紹介する中で、用具がさらりと紹介されている。丁寧な挿絵まで付けられていたが、使っている道具がヒトの解剖とそう変わりないので笑ってしまった。とげ抜きピンセット、先端を上手く使うとものも切れるので重宝だよねえ。解剖の経験があるとこういう細かいところまで手に取るように分かって楽しいかもしれない。勿論そんな経験がなくても物凄く面白い本である。むしろ「解剖始めちゃうかな〜」と思うくらい。全然過言じゃない。
百聞は一見にしかず……!
というわけで百聞は一見にしかず、是非『キリン解剖記』をお読みください! 解剖学だけでなく、化学的思考の面白さも伝わってくる良書です。ついでに師匠である遠藤教授の本もご紹介。
うっかり人体解剖が気になってしまった方には、スケッチが大変美しいFeneisの解剖学事典をオススメしたい。人体の構造ひとつひとつにちゃんと名前があるんだなあと思って惚れ惚れする。
著者である郡司さんに迫ったインタビューも秋に公開されているので合わせてどうぞ。
ちなみに普段でもこんな面白いTwitterをされている方なので、是非是非フォローしてみてください。
2月20日までご本人が出演されたテレ東の「探求の階段」がアーカイブ視聴できます!
video.tv-tokyo.co.jp
【投稿後追記】200621
ニュースイッチで郡司さんの楽しいインタビューが出ていた。飾らなくて明るい人柄が伺える素敵なインタビューなので是非お読みくださいませ……!
newswitch.jp
関連:キリン解剖記 / 郡司芽久 / 国立科学博物館 / キリン