ちいさなねずみが映画を語る

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爪弾きにされた悲しきクラウンの物語 - 映画『ジョーカー』

この作品がヴェネツィアに出品された時、DCコミックス発の異色作が、まさか金獅子賞に輝くと思った人は誰もいなかったのではないか。そんな『ジョーカー』"Joker"を観てきた。トッド・フィリップス監督が口説き落としたホアキン・フェニックスが、怪優としての真骨頂を見せている。一方で、共演者にネズミを贈ったジャレッド・レトとは違い*1ホアキン版で表現されたのは、社会から爪弾きにされた悲しきクラウンの姿であった。今回は主人公アーサー・フレックの人となりに絞って、この映画の世界を深掘りしてみたいと思う。

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今回、できるだけネタバレは無しでお送りしたいが、ふとしたことで核心に触れる可能性があるので、新鮮な気持ちで作品を観たい方はUターンしていただきたいと思う。

 

 

 

 

深掘りされたのは、アーサーの精神世界

作品の宣伝で「ジョーカー誕生の物語」と銘打たれていたように、物語の中心となるのは、主人公アーサー・フレックが如何にして「ジョーカー」へと変貌していくかというストーリーである。その中で脚本陣が選んだのは、「信頼できない語り手」アーサー自身に精神世界を描かせることだった。

 

アーサーは脳の損傷が原因で、感情に関係無く「笑い発作」を起こしてしまう。この症状が原因で周囲には気味悪がられ、自分に優しくしてくれる人も少ないとアーサーは語る。(発作が原因なのか) 精神科的カウンセリングに通いつつ7種類もの薬を服用しながら生活していて、おまけに老いて心臓も悪い母を介護しながらかつかつの生活を送っている。ちなみに本人が面白くないのに笑い発作を起こしてしまうというのはてんかん発作などの一症状として実在するものだ。筆者は鑑賞中何故かナルコレプシーの情動脱力発作*2ばっかり思い浮かべてたけど……!

front-row.jp - 鑑別疾患全然思い浮かべられないまま帰宅したら、ちゃんと記事がありました

 

この作品の視点は、常にアーサーの側にある。マリー・フランクリン・ショーに歓喜する姿も、隣人ソフィーを見つめる目も、ゴッサムシティの狂乱も、全てアーサーの側から描かれている。意図的に現実と幻想の境目が分からないような作りとなっており、観客の側はアーサーの手の中で弄ばれる展開となっているのだ(もっとも、アーサーの側にその自覚は無いが)。その分、アーサーの心の動きが丁寧に描写されていて、精神分析に興味があれば、アーサーの思考を精神科的に分析してみるのも面白いのかもしれないと思う。

theriver.jp - リンク先はネタバレ注意

theriver.jp - アーサーの精神世界については制作サイドからこんな深掘りも

白人なのに爪弾きにされたアーサー

この作品を観ていて筆者が如実に感じていたのは、アーサーが持つ社会からの疎外意識である。時には笑い発作のために気味悪がられて、そして時にはクラウンという職が悪さをして。同居する母も、昔の雇い主に援助を縋ろうとしているが、その背景には親子の置かれた窮状がある。

 

以前『スリー・ビルボード』のネタバレ考察記事でも触れたが、アメリカではアーサー親子のような、「白人なのに社会の低層にいる人物」というのが社会問題になっている。その後ジョーカーへと変貌していくアーサーの対偶にいるのが、裕福な親と屋敷を持ち、何不自由ない生活を送っているブルース・ウェインである(皆さんご存じの通り、彼が後のバットマンだ)。

mice-cinemanami.hatenablog.com

 

本作では、ジョーカーを単なる悪人として描くのではなく、障害や社会的背景など様々な理由から爪弾きにされ、自分の意見をまともに聞いてもらえなかった人間の末期(まつご)として描いている。評価が賛否両論というのも、この設定を考えれば然もありなん、切り捨てる側の人間にとってみれば厄介な映画だからだ。しかしながら、この作品に対して、「暴力を助長する映画だ」と切り捨ててしまうのは、あまりに暴論である。この作品が真に伝えたかったのは、自分たちもジョーカーを「生む側」の人間になりかねない、という警句なのではないだろうか。アーサーは破壊的衝動の目覚めゆえにあのような道を辿った。但し、あれはアーサーの表現方法であって、映画そのものが暴力を助長しているわけではない

 

全ての人が、自らの意見を思うように展開できる世の中というのは、どう考えても夢物語である。アーサーの意見も聞き入れられるべきとは思わない。しかしながら、そういった疎外感から破壊的行動に走る人もいかねない、という事実だけは、心に留めておく必要があるのではないかと思う。

 

過去の映画との共通点

映画館の椅子に収まりながら、筆者はふたつの映画との共通点を考えていた。

 

まず一作目は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。マイケル・キートンがかつてヒーロー映画の主役で一世を風靡しつつも、今ではすっかり落ち目の俳優を演じた一作だ。主人公リーガンの心の闇が、かつて演じたバードマンの姿で本人の心を病んでいく。撮影監督エマニュエル・ルベツキが指揮し、長回しを多用して現実と幻想の境目を意図的に煙に巻いているのが有名な一作だ。キートンはかつてティム・バートン版でバットマンを演じていたため、それも思い起こした一因か。何にせよ長回しが心地よい名作なので、是非観ていただきたいと思う。

 

もうひとつ思い出さずにいられなかったのが、1975年に制作された映画『イナゴの日』である。正直言って、今でもこの映画を理解しきれていない。この映画が何を伝えたかったのかも理解しきれていない。しかしながら、アーサーが蒔いた種がゴッサムシティを狂乱に陥れていく様子は、この映画のラストの暴動と似通ったものがあると思うのだ。

イナゴの日 [DVD]

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怪優ホアキン・フェニックス

今回の映画において、ホアキン・フェニックスの存在は無しでは語れないと思う。トッド・フィリップス監督は最初から彼ありきで考えていたというが、ホアキンにとってこの役はあまりに当たり役であった。

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フェニックスはこの役を演じるに当たって、24kgも減量して臨んだという。一時期はモキュメンタリー映画の撮影もあって激太りしていたことを考えると(詳細はここで☞オリコン)、作中の姿は驚いてしまうほど絞られている。単に病的な絞り方ではなく、筋肉が浮き上がるような絞り方で、作中何度か繰り返されるダンスシーンでも見惚れてしまうほどだ。

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インタビューによれば、振付師は雇われていたものの、フェニックスが曲を聴いてアドリブで踊り出して完成したシーンもあるということ(シネマトゥデイのインタビューでは、トイレに逃げ込んだアーサーのシーンがそれだとされている)。バレエのような動きもあり、ジャジーなリズムもあり、クラウンのような滑稽な動きもありで、暴力的な映画をファニーに揺り戻す重要なカギとなっている。また、クラウンとしての動きがその後のシーンに取り入れられているのも見どころだろうとは思う*3

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そう言えば、大変どうでもいい話ではあるが、劇中コメディアンが「大学教授と単位が欲しい女子学生のプレイをするんだ」とアーサーの前で言うシーンでは、「ホアキンの前でそれ言うか〜〜〜〜〜!」と何だかウケてしまった。ほんとどうでもいい。*4

 

Joaquin Phoenix red carpet at 76. Venice Film Festival
——Octavian Micleusanu [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

 

意外な登場人物

アーサーが憧れるテレビ司会者マリー・フランクリン役には、なんと大名優ロバート・デ・ニーロが参戦。『レナードの朝』をはじめとして、役作りにかなりの労力を割くことで有名なデ・ニーロであるが、今作ではフェニックスと役への向き合い方で多少の齟齬があったことも明かされている。ふたりの異なるアプローチ方法も読んでみると面白い。

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ところで、デ・ニーロ演じるフランクリンの名前は、"Murray Franklin"である。イギリスが誇るテニス選手、アンディ・マリーの名前で分かるように、正確な読み方は「マリー」だ。作中でも、フランクリンは一貫して「マリー」と呼ばれており、唯一アーサーだけが「マレイ」に近い発音で呼び間違えるという演出がされている(ように感じた)。字幕では全て「マレー」と訳出されていたが、ちょっと勿体ないなあと感じてしまった次第である。(アーサーのスペルミスの多さは前半登場する日記でもよく分かるのに……!)

 

もうひとり意外な登場人物としてあげられるのが、制作に名を連ねていたブラッドリー・クーパー。昨年『アリー/スター誕生』で賞レースを賑わせ、映画製作者としての腕も見せつけたクーパーだが、これにはトッド・フィリップス監督の存在が関与している。フィリップス監督は、元々『ハングオーバー!』シリーズで大出世したコメディ出身の監督だが、この作品は言わずもがなクーパーの出世作でもある。元々コメディ畑の人物が、このような重厚な作品を作ることも凄いし、その縁が今でも続いているのも良い話だなとは思う。

mice-cinemanami.hatenablog.com

物語を彩る重厚な音楽

この作品では、シナトラの "That's Life"、劇中引用される『モダン・タイムス』から「スマイル」"Smile"など、古き良きアメリカを代表する名曲が多数使用されている。その話はあちこちで取り上げられているので、この記事では敢えてオリジナル・スコアの方に目を向けたい。

www.udiscovermusic.jp

本作のオリジナル・スコアは、大変重厚感のある圧倒的な音楽。アーサーが悪の権化「ジョーカー」へと変貌し、その生き方をまざまざと見せつけてくるように、ペンキでぐりぐりと塗ったような音楽が流れる演出となっている。筆者はそういったシーンを観ながら、「さながら『ブレードランナー2049』だなあ」と思ったものである。

Blade Runner 2049 (Original Motion Picture Soundtrack)

Blade Runner 2049 (Original Motion Picture Soundtrack)

 

 

筆者の感想もさもありなん。音楽を担当したのは、アイスランド出身のチェリスト、ヒドゥル・グドナドッティルだった。彼女は同郷の映画音楽家ヨハン・ヨハンソンの弟子にあたり、『メッセージ』などの作品で共作も手掛けていた。『ブレードランナー2049』のスコアは最終的にハンス・ツィマー(ジマー)らが手掛けたが、その前にはヨハン・ヨハンソンが手掛けていたのは有名な話である。ヒドゥル・グドナドッティルはチェルノブイリ原発事故を精細に描いたことで話題の『チェルノブイリ』の音楽も手掛けているそうなので、今度続きもしっかり観たいと思う。

Joker (Original Soundtrack)

Joker (Original Soundtrack)

 

 

秋の夜長にレイトショーはいかが

というわけで今回はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞に輝いた『ジョーカー』について取り上げた。秋の夜長、芸術の秋ということで、映画を観に行く人も多いだろう。重厚で深く考えさせられる作品だからこそ、後は寝るだけ、となるレイトショーで観に行くのもよいのではないだろうか。筆者も積み上げたままになっている映画ストックを少しずつ消費したいなと考えている。1ヶ月も記事を書かずにいてはてなブログさんから「何してますか?」とメールが来てしまった筆者であるが、これからはそういうストック映画の記事をぼちぼち書いていきたい。

——今週のお題「秋の空気」
 
ダークナイト (吹替版)

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——ついでだからヒース・レジャー版でも観ようかな

関連:ホアキン・フェニックス / トッド・フィリップス / ロバート・デ・ニーロ / ザジー・ビーツ / フランシス・コンロイ / DCコミックス / ジョーカー

*1:この話は『スーサイド・スクワッド』('16)撮影中の実話☞

eiga.com

*2:ナルコレプシーの一症状として、感情が高ぶった時にそのまますとーんと力が抜けてしまうという症状がある(金沢大学プレスリリース)。大笑いした時に起こることが多いとされ、医師国試にも時々出てくる症状なのだが、ホアキンの笑いがあまりに振り切っていて何かこれしか出て来なかった……

*3:例えば冒頭看板を奪われて重い靴のまま間抜けに走るシーンは、精神科病院でカルテを盗んで走るアーサーの姿と重なるし、マリー・フランクリン・ショーに向かう道で踊り出すシーンにも、クラウンの動きが取り入れられている

*4:ウディ・アレン監督で2015年に制作された『教授のおかしな妄想殺人』"Irrational Man"は、ホアキン・フェニックス演じる偏執狂的教授がひょんなことから殺人を生きがいにしてしまう謎ストーリー。フェニックスの役どころは落ち目の大学教授で、そんな彼に近付いてきて交際に至る女子学生をエマ・ストーンが演じている。ウディ・アレンが何故こんな作品を突然思いついたのかすらよく分からないので、別に観なくてもいいと思う……

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