ちいさなねずみが映画を語る

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すこぶる内省的でさざ波のように去る物語 - 『貝に続く場所にて』

ここ2ヶ月ひどく忙しかったのでブログと距離を置いていたが、文化の日ということで久々に筆を執った。人間忙しい時には文化からこぼれ落ちていくというのは真理であるなあと思う。忙しかった代わりに、今日紹介するのはひどく静かな純文学だ。石沢麻依氏が第165回芥川賞に輝いた『貝に続く場所にて』(2021年、講談社)である。

——はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

あらすじのようなもの

簡単にあらすじを言うと、ドイツはゲッティンゲンに留学している主人公の元に、9年前の東日本大震災で行方不明になったはずの同門生が突然やってくるという物語である。COVID-19のせいで外出もままならない中、彼の出現と同時に不思議な現象がゲッティンゲンで繰り返されるようになる。街の人々が娯楽のように超常現象を楽しむ中、主人公はひとり9年前の自分たちに思いを馳せる……という話だ。

主人公と同門生・野宮の生前の付き合いがやや希薄なのが個人的には面白いポイントであった。野宮と共に、実際にゲッティンゲン訪問経験があった寺田寅彦の姿も重ねられるのがもうひとつの味噌である。

 

 

作者の話

筆者がこの作品を手に取ったのは、久々の(、なのだろうか)、宮城県が輩出した芥川賞作家であり、加えて石沢氏の経歴に自分と似通ったものをいくつも感じたためだ。石沢氏は仙台市出身で東北大学の文学部に学び、大学院で西洋美術史を学んで現在はドイツに留学している。この小説はすこぶる内省的で、石沢氏の経歴ともよく重なっているので、小説中の記載を参考にすると、仙台市仙台市でも内陸の出身らしいということが分かる(もっとも仙台市の人口は大半が内陸の平野部に集中しているが)。主人公がドイツに留学しているというのも、彼女の経歴を重ね合わせた設定だ。

kahoku.news

宮城県民が書いた震災の話、というだけでも手に取りたくなるのだが、読み進めていくにつれて、主人公が内陸出身の宮城県民である、という事実が静かに迫ってくる。これは地元民でないと分からない感覚だと思うが、宮城県民の中でも、震災に関する思いは、沿岸部の住民と内陸部の住民で大きく異なっていると思う。石巻に実家があった野宮、そしてベルギーに住む同級生・晶紀子の震災体験に対し、主人公は少し距離を置いた見方をしている。前者ふたりが津波の被害を目の当たりにし、更に言えば野宮は命を奪われた(だろうと考えられている)中で、後者が感じたのはただ大きな揺れと、その後の騒乱だからだ。これは実際の宮城県民でも同じであって、沿岸部の復興は未だ道半ばな一方、内陸部、特に仙台のような市街地は、最早震災の影も無いような生活が当たり前のように続いている。わたしも後者の側であり、主人公、ひいては石沢氏の視点からこの物語を眺め続けることになるのだ。

 

階層化される被害の度合い

宮城県というのは元々地震の多いところで、はっきり言って地元民はみんな地震の被害には慣れっこだ。実際、2003年5月に宮城県沖を震源とする地震が発生して以来、東日本大震災の発生まで2〜3年に1度、下手をするとそれ以上の頻度で震度5以上の大地震に見舞われていた。東日本大震災があった後でさえ、宮城県沖地震は30年に1度必ず起こると言われていて、その確率(99%と言われている)は世界で最も高いのだという。東日本大震災の時でさえ、その死者の大半は津波被害によるものであって、家屋の圧壊で多くの死者を出した阪神・淡路大震災熊本地震とは大きく異なっている。「家はあった、ものは来ない、しっちゃかめっちゃかである」、という程度なら、作中の主人公と同じように、ただ片付けに勤しむだけであろう、そういう土地なのだ。

東日本大震災がその他の地震と大きく異なったのは、震源三陸沖の広範囲で、狭義の宮城県沖地震とは比べものにならない範囲に津波被害をもたらしたことである。野宮のように自宅に留まって、家もろとも流されてしまった人も大勢いた。家どころかひとつの町そのものが消え去ってしまうような被害を前に、いくら地元民とはいえ、迂闊な言葉を出すことはできない。

 

この物語の中でも、そういった「被害の階層」が丁寧に描かれている。隣国オランダを震源とした地震の話(1992年)が挿入されているが、アガータはそれを経験できなかった。主人公は東日本大震災の後、しっちゃかめっちゃかになったゼミの片付けに追われるが、彼女が感じたのはちょっとした(?)不便のみである。晶紀子は実家を津波で流されながらも、沿岸部ながら被害を受けなかった祖父母の家に身を寄せた。そして野宮は津波に飲み込まれて消えてしまった。この感覚は、わたしがこの10年ひしひしと感じていた、「被害の階層」そのものである。

 

被災地ながら首都圏からの進学者も多い学部にあって、学部の特性もあり、震災というのはいつも近くで見え隠れしているものだった。被災地実習と称して、全員が沿岸部の被災地を訪問する実習に行かされたこともある。海も見えないのに更地になっている土地を目の当たりにして、自分たちの想像を絶する出来事が、この場所で起きたのだと思わされたものだった。しかしながら、震災の当日帰宅困難者となっててくてく歩いて帰ったのだという話を聞かされながら、はたまた遠い土地でえらいことが起きているものだと食い入るようにテレビを眺めていたという話を聞きながら、寸断されたライフラインが全て復旧するまで知恵を絞ったあの日々とは異なっているなと考えさせられた。主人公も地震を体験できなかったと話すアガータを見つめながら、どこか複雑な思いを抱いていることが示唆される。「傷付いた」という言葉ではあまりに乱暴だが、主人公もまた東日本大震災で何かしらの衝撃を受けた者なのだ。

 

不在者たちの感じる罪

奇しくも先日まで放送されていた連続テレビ小説『おかえりモネ』も東日本大震災から9年の世界を描く物語であった。東京編がスタートしたのと実生活が忙しくなったのが重なって振り返り記事は止めてしまったが、並行してふたつの物語を読み進める中で、どちらも不在者たちが感じる罪の概念を描いているという偶然に驚いたものである。

mice-cinemanami.hatenablog.com

 

朝ドラ『おかえりモネ』において、主人公のモネこと百音は、震災当日に島を離れていて津波を目の当たりにしなかったことへの罪の意識を抱き続けている。最終週になり、妹・未知も同じような罪の意識を抱いていたことが発覚するが、それは物語上で9年の歳月が過ぎてからの話であり、当日島にいた未知との間には大きな溝が横たわり続ける。そこにいなかったということに罪は無いはずなのに。

 

あらすじで書くと震災で行方不明になった旧い友人が、という話になってしまうが、主人公は野宮に対してどこか冷めた思いを持っていて、その認識も偶然ゼミの後輩になった人物が震災で行方不明になった、という程度のようだ。その証拠に彼女は野宮のことをすっかり忘れてしまったまま震災後の数年間を過ごしていた。しかしながら、いざ野宮が目の前に現れた時、彼女が願うのは野宮の魂の救済であって、晶紀子や野宮の気持ちを理解出来ない自分への葛藤である。キリスト教を大きな背景とした西洋美術史を学ぶ主人公にとって、トリュフ犬が探し出してくるものにはどれもキリスト教的救済が見え隠れするのであった。野宮の救済を通じ、主人公は自分なりに9年前の衝撃に答えを出そうとするのである。

 

さざ波のように去るもの

主人公は既に日本を離れてドイツに留学しており、震災のことを思い出すこともほとんどない。舞台は2020年のドイツであり、COVID-19が災禍として猛威を振るう中、本来ならば思い出されないはずの出来事だ。それが野宮の突然の来訪により大変化し、主人公は9年前の出来事と深く向き合うことになる。

 

突然の来訪、とは書いたものの、野宮は登場も退場もさざ波のように静かな人物であった。野宮が再び現れたらしい、というニュースは、COVID-19で人の往来が制限された中でゼミ生からのメールという形で伝えられるし、退場も退場で大変静かなものである。主人公はその去り際にさざ波のような風景を思い浮かべるが、その姿は彼を飲み込んだ津波とは大きく異なるものだ。

 

この物語は、どこまで行っても静謐である。主人公の心の動きも、野宮の旅路も、そしてウルスラが導く道筋も。その静かな小路の中で、あの震災に対して感じている、何とも言えない複雑な思いが解きほぐされていく。

この話は読んだ人に明確な答えを与えないかもしれない。救いが得られたかどうかも分からない。それでも、この静謐な心の動きは、ふと心を休めるのに適した、そんな静けさであった。こういう静かな話をいつか書けるようになりたいと思うばかりである。

 

おしまい

物語の初出は『群像』2021年6月号で、現在は講談社より単行本として発刊されている。ゲッティンゲンには野宮と共にかつてこの場所を訪れた寺田寅彦の姿も見え隠れし、その文章を合わせて読むのもまた一興だろう。折角なので喫茶ルポーでミルクコーラでも片手にこの本を読みたいものだなと思う*1

 

関連:芥川賞 / 貝に続く場所にて / 石沢麻依 / 東北大学 / 東日本大震災

*1:この話が分からない方は同じく東北大学法学部出身の伊坂幸太郎が書いた『仙台ぐらし』を読んでいただきたい。(そうかもう荒蝦夷刊行の単行本は絶版なのか……)

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