老女は淡い恋を乗り越え、再び日常へと戻っていく - 映画『ラヴェンダーの咲く庭で』
映画『ラヴェンダーの咲く庭で』"Ladies in Lavender" ('04)と言えば、このどこかもの悲しいテーマ曲を思い出す人も多いのではないか。「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」と名付けられたこの曲は、かつて浅田真央が世界選手権を制した際の使用曲でもあるし(2007-08シーズン)、町田樹がラストシーズンのSPに使っていた曲でもあるし(2014-15シーズン)、宇野昌磨が全日本初制覇した年の曲でもあるし(2016-17シーズン)*1、フィギュアスケートに欠かせない曲のひとつである。かく言う筆者もスケートからこの映画を知ったくちであったが、映画自体は、小粒ながら観た者の心に何かを残す、そんな作品であった。
www.youtube.com - ここで演奏されているのは長調版
あらすじ
舞台は1936年のコーンウォール*2。ジャネット (演:マギー・スミス) とアーシュラ (演:ジュディ・デンチ)のウィディントン姉妹は、いずれもオールドミスのまま、姉妹仲良く静かに暮らしていた。物語は姉妹が浜辺に散歩に出掛け、難破船から放り出されて打ち上げられた青年を見つけたところから始まる。言葉も通じない青年を介抱しながら、アーシュラは今までに無かった感情の湧き上がりを感じる。青年の正体はポーランド人のヴァイオリニスト・アンドレア (演:ダニエル・ブリュール) だったが、彼の非凡な才能は、コーンウォールの田舎町を飛び越えて行こうとしていた……
時代背景
ウィディントン姉妹について
今作の舞台は、第二次世界大戦勃発直前の1936年。マギー・スミスもジュディ・デンチも1934年生まれらしいので、2004年の公開時には70歳だったはずだが、ジャネットとアーシュラの年はもう少し若く設定されている気がする。しっかり者の姉ジャネットには婚約者がいたものの、先の大戦 (WWI、1914〜1918年) で兵士として前線に送られ、戦没したことが示唆される。一方のアーシュラには恋人が出来た試しが無く、結果としてふたりはオールドミスのまま、亡父の遺した家で暮らしていたのだった。(邪推なのだが、アーシュラに婚約者がいなかったのは、姉ジャネットが未婚であることと大きく関係がある気がする。時代が時代なので、やはり姉妹の順番を、というものがあるような無いような)
この作品の原題は、"Ladies in Lavender" (ラヴェンダーの中の淑女たち)。宇野昌磨がかつてこの曲で競技に挑んだ時、その演技について書いた いとうやまねは、ラヴェンダーが衣服の防虫に使われることを引き合いに出し、この題名は恋愛沙汰からとんと遠ざかっている姉妹の様子を暗喩しているのだと述べていた。
アンドレアの側
ダニエル・ブリュール演じるアンドレアの故郷、ポーランドは、世界史上最も危うい場所のひとつであった。作品の時代設定から3年後の1939年には、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を許すことになる。アンドレアは純粋に自らのキャリアを追い求めて国を出たようだが、歴史を知るわたしたちの側は、彼の祖国が崩壊の危機に立たされていることも考えずにはいられないのである。
第一次世界大戦以来、ドイツというのはヨーロッパの中で浮いた存在であり続けた(個人的にはそういった孤立がWWIIを招いたという気もしないではない)。今作の中でも、アンドレアを快く思わないある人物が、ドイツのスパイ疑惑を被せてしまおうと画策するシーンがある。ドイツに対する敵国意識、そして隣人すら通報してしまう疑心暗鬼ぶり*3は、大戦期のヨーロッパを覆っていた空気なのだと実感させられる。
また、ポーランド人は、ナチス・ドイツの支配下において、ユダヤ人よりも酷く扱われて大虐殺された人々である。アンドレアは運良くWWIIの前にポーランドを出ることになったが、この先彼らを待ち受ける運命とは……と考えてしまう。
折角なので、ブリュールくんがゲシュタポを演じた映画をご紹介しておきますね。ブレンダン・グリーソン(ドーナル・パパでもありますね)とエマ・トンプソンがレジスタンスに身を投じる夫婦を演じる作品。
アーシュラに訪れる老いらくの片想い
浜辺に打ち上げられたアンドレアは、発見したウィディントン姉妹の家で介抱される。英語を介さないアンドレアとのコミュニケーションはなかなか難しいが、特に妹のアーシュラが熱心に世話をし、彼も少しずつ英語を覚えていく(どうでもいいけど、ブリュールくんはドイツ人だし、英語も堪能なので、この辺りの描写はちょっとおかしみがある)。気付けば彼女は年甲斐もない恋に落ちているが、そこは歳を重ねたイギリス婦人なので、様々な障壁があってその感情を露わにすることはできない。そうこうする内に、アンドレアの前にはオルガという芸術家のロシア女性が現れて、アーシュラは余計に自分の気持ちを言い出せなくなってしまう。
老いらくの恋ながら可憐な姿を見せるアーシュラ役のジュディ・デンチ、そして妹の気持ちを知って驚きつつも平静を装うジャネット役のマギー・スミスが、どちらも得意役を自然と演じていて面白い。そしてそこに抜群の好青年として登場するブリュール氏よ……
【ネタバレ】ラストシーンについて
アンドレアはひょんなことからロンドンでコンサートソリストとして演奏する機会を得る。その話を知ったコーンウォールの人々は、一つ屋根の下に集まってラジオでの放送に耳を傾けるが、ウィディントン姉妹だけは内緒でロンドンへ向かい、実際のコンサートホールで彼の演奏を聴くのだった。演奏会後、コーンウォールに帰った姉妹は、再びふたりで浜辺を散歩する……
実はこの浜辺のシーン、冒頭で使われた映像をそのまま流用している。アンドレアに出会う前、そして彼が遠く去った後。アンドレアのいないシークエンスで作品をサンドイッチすることにより、アーシュラの恋が幻と消えて、老姉妹ふたりだけで過ごす元の生活に戻ってしまったことを示唆しているのだ。ほんの小さなことだが、映画的に上手い演出だなあと感じた。
おしまい
アンドレアの演奏を吹き替えているのはアメリカ人ヴァイオリニストのジョシュア・ベル。ナイジェル・ヘスの手による「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」は、元々が全編大サビというか、『コウノドリ』の "Baby, God Bless You"*4並みに「泣け、泣け」という構成になっているが、ベルの演奏がそれに拍車を掛ける。フィギュアスケートでの名演が過ぎる筆者なら尚更だ。本編と合わせて、ベルとヘスの手掛けた名曲にも目を向けてほしいと思う。
関連:ラヴェンダーの咲く庭で / ジュディ・デンチ / マギー・スミス / ダニエル・ブリュール / フィギュアスケート
*1:もっともこの年、最大のライバルである羽生結弦はインフルエンザのため欠場しており、直接対決した上での全日本制覇は2019-2020シーズンまで待たざるを得なかったのだが
*2:イングランド南西に突き出た半島部分を占める地域。イングランド最南端に当たり、気候も穏やかで自然豊かな景勝地として知られる。ケルト文化も色濃く残り、他の地方とは一線を画している。イングランドのバカンス地としても人気な場所。奇遇だが、ひとつ前にレビューを書いた『アバウト・タイム』も、ティムの実家はコーンウォールにある設定である。
mice-cinemanami.hatenablog.com
*3:勿論作中では偽の通報なのだが、それができるということは、同じような通報が日常茶飯事でなければならない
*4:サクラ先生のピアノ演奏を吹き替えた清塚信也が手掛けたメインテーマ。これもどこを取っても心を締め付けるような旋律でできている。