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女性監督作品の先達ながら忘れられた一作 - 映画『WANDA/ワンダ』

1970年に制作された映画『WANDA/ワンダ』"Wanda" ('70)を観てきた。エリア・カザン2番目の妻だったバーバラ・ローデンが脚本・監督・主演の3役をこなし、当時のアメリカでは珍しかった女性監督作品となった。ヴェネツィア国際映画祭で最優秀国際映画賞を獲得したものの、本国アメリカでは忘れられた存在となり、近年グッチらの支援によって再発掘された作品である(cinemacafe.net)。配給のクレプスキュールにとっては設立以来配給第1作となったようだが*1、これからも良作を世に送り続けてほしいと思う。

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あらすじと背景

詳しい映画評は映画評論家に譲るとして(cinemore.jpのこの記事はよかった)、ざっとこの作品の背景を振り返りたい。

cinemore.jp

監督・脚本・主演の3役を務めたバーバラ・ローデン(Barbara Loden, 1932 - 1980)は、当時エリア・カザン*2の妻であり、カザンの作品にいくつか出演していた。「エリア・カザンの妻」というどこか添え物のようなイメージが先行する中、ローデンは新聞で読んだ記事に感銘し、『WANDA/ワンダ』の原型となる脚本を作り上げる。実はローデン自身も田舎で恵まれない幼少期を送っており(cinemacafe.net参照)、記事で取り上げられていた女性の姿に自らと共通するものを感じ取っていたのだった。紆余曲折を経てローデンが自らメガホンを取ることになり、当時のアメリカでは珍しい女性監督作品のロードショーとなった。国内での興収はそこまで奮わなかったようだが、シネマ・ヴェリテ(即興劇スタイル)らしい撮影手法や、アメリカの鉱山地帯に住む無力な女性を切り取った脚本は評価され、同年のヴェネツィア国際映画祭で最優秀国際映画賞を獲得している。

 

あらすじとしては、鉱山地帯で家庭も職も失った無学な女性ワンダ(演:バーバラ・ローデン)が、なけなしの財産を盗まれたところから始まる。偶然入った店で強盗のデニス(演:マイケル・ヒギンズ)と出会った彼女は、何故か彼の逃避行に付いていき、彼に付き従って銀行強盗をはたらくことになるのだった。

 

ワンダの学の無さはローデン自ら選んだものである

この作品で際立っているのはワンダの学の無さだ。彼女が機転を利かせるのは銀行役員の家に押し入るシーンだけで、それ以外は家事も仕事もできない残念な女として描かれ続けている。学が無いので金のために刹那的な関係を結ばなくてはならず(それでいて利用されたまま搾取される)、デニスにあれだけ詰られながらも、何故か彼に付いていくことを選ぶ。どうしてあそこまで、とは思うのだが、ワンダにはあれしか手段がないのだ。

 

この作品はワンダのような境遇の女性を新聞記事で読んだローデンが、これは自分の生活にひどくそっくりだと感じて脚本を書き始めたものだった。幼少期のローデンは親と別れて祖父母とアパラチアの山の中で生活することを強いられ、モデルやバーのダンサーといった仕事を転々とした末に女優業へ進んだ。幼少期の貧困に加えて、エリア・カザンが後年に書いた自叙伝からは、ローデンの性的魅力を目当てにしていた面があることと(カザンはローデンより23歳年上だ)、彼女を支配しようするも失敗したことが書かれている("Elia Kazan: A Life")。「こんなに横柄なのにどうして付いていくのか分からない」デニスとワンダの関係は、もしかしたらローデンが自分たち夫妻の有様を投影したものなのだろう。ローデンはカザンに劣等感を抱いていたというから、ワンダを無学な女性にしたのも、そうした劣等感の表れなのかもしれない。貧困に喘ぐ女性の生き様を描く上で、ワンダがあそこまで見放された女性である必要はないわけだから。

 

長回しと即興劇の多用で、思考の余地を与えるショットに

この作品のショットは今でも画期的なのではないかと思う独特な割付だ。ローデンは撮影の上で即興劇スタイルを好んだというが(どこかドキュメンタリー映画のようなシネマ・ヴェリテスタイルである)、それを行うためにショットは必然的に長回しになる。低予算映画なのも長回し多用の理由になるかもしれない(長回しが多い方がフィルムの切り貼りは少ないので編集は楽であろう)。冒頭、炭鉱脇の鉱石置き場を長々と歩くワンダのシーンは実に印象的である(復刻版オリジナル予告編の最後で観られる)。

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全てが計算され尽くしたショットと違い、即興劇的な撮影手法では、どうしても台詞や演技の行き来にテンポの波が出来てくる。感情的になればその分テンポは速まるし、押し黙ればゆっくりとしたテンポに戻る。そのテンポの揺らぎというものが、こちらに考える余地を与えるのだ。ワンダは何故デニスにどこまでも付いていくのだろう? 貧困から抜け出す手段はあれしかなかったのだろうか? 搾取され続けてもあの生き方を辞められないのは何故なのか? と……この点に関しては、『WANDA/ワンダ』公開直後のローデンが明確な答えを示している。

「つるっとした[訳註:"slick"には「如才ない」という意味もあり]映画が本当に嫌いで……信じられないほど完璧なので。見た目のことだけじゃありません。リズムであるとか、カット割り、音楽とか——とにかく全てです」(拙訳)

Barbara Loden: "I really hate slick pictures…. They’re too perfect to be believable. I don’t mean just in the look. I mean in the rhythm, in the cutting, the music—everything."——Wanda | The New Yorker

 

純粋に無学な女性が描きたかったのだろう

当時のアメリカでは女性監督作品は大変少なかったらしく(今ですら、という状況なのだから当然か)、1970年に鉱山地帯の女性の貧困を描いた今作は、フェミニズム作品と捉えられることもあったようである。しかしながらローデンは、後年のインタビューで製作時には女性解放運動など知らなかった、と述べている。

彼女は『WANDA/ワンダ』の後も映画制作に取り組みたがっていたようだが、長編映画としてはこれが唯一の作品となった。次作が作られなかった以上、ローデンの意図を深く読み解くことはなかなかに難しい。

 

しかしながら、『WANDA/ワンダ』に関する様々なインタビューから類推するに、彼女は無学な女性としての自身をスクリーン上に投影させることが目的であって、決してフェミニズムの枠組みの中に入りたかったわけではないと思う。結果として描いているのは女性である自らの姿なのだが、このふたつは明確に異なっている。ドキュメンタリースタイルの撮影方法を見るに、彼女は自分自身の姿を世に知らしめたかったのだ。ローデンの性別が男性だったとしても、彼女はワンダの性別を変えただけの、同じような映画を撮っただろう*3

 

おしまい

『WANDA/ワンダ』は2022年7月9日より全国各地の小劇場系で封切られ、現在も各地巡回中である。ローデンの次回作が得られなかったことは残念だが、今作は特段大きな波もないものの、ひとりの無学な女性の生き様について様々考えさせられる静かな作品である。配給のクレプスキュールには、今作のような良作を送り出すような配給会社になってほしいと思う。

関連:WANDA/ワンダ / バーバラ・ローデン / エリア・カザン

*1:字幕は全体にiMovieで作ったのかな?という気もしたが、有料フォントとか買えるような稼ぎになったら色々と変わってくるのだろう。ここからが始まりだ

*2:ギリシャアメリカ人の映画監督・演出家。晩年は赤狩り事件の密告で完全に干されることになるが、ローデンとの結婚期間はカザンに脂がのりまくった時期でもあった。息子のニコラス、孫娘のゾーイ、マヤも映画業界に進み、中でもゾーイ・カザンは俳優・脚本家として働く才女として知られている☞

*3:勿論映画の製作背景には、当時の映画・舞台業界で女性がある意味冷遇され、彼女も搾取を受けていたという事情があるわけで、その辺は複雑だが

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