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揺らぎ続ける真実と舞台的な演出 - 映画『ファーザー』

アンソニー・ホプキンズが2度目のオスカーに輝いた作品、『ファーザー』"The Father" ('20)を観てきた。今年のオスカーは急逝したチャドウィック・ボーズマンにオスカーが追贈されるかどうかで持ちきりだったけれど、内心ではホプキンズを推していたので、公開までとても楽しみにしていた。中身が中身なので大変しんどい映画だったが(とはいえ「そんなもんだろう」と冷めた目で観られたのは自分でも意外だった)、名優を越えて老境に至ったホプキンズの演技は、今回の評価に値するものだと思う。

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あらすじ

1937年12月31日生まれのアンソニー(演:アンソニー・ホプキンズ)は*1、自らのアパートで一人暮らし。娘のアン(演:オリヴィア・コールマン)が訪ねてくるが、彼女の話は何故かアンソニーの記憶と食い違っている。介護人*2と揉めたのでやってきたのだと話すアン。自分のフラットを離れる気は無いと強硬に主張するアンソニーだが、どうやら状況はそう簡単でないようで……

 

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※この先では映画の筋書きに深く触れています※

 

ファーザー観てきた。揺らぎ続ける真実。ゴーストストーリーズのような結末(分かってはいたが)。舞台的演出のオンパレード。バードマンを思わせる何か。観てよかった。——どこかで書いたもの

 

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認知症を一人称で描いた名作

この作品を簡潔にまとめるならばこれに限るだろう。正確には、認知症とBPSDを一人称で描いた名作だ。アンソニー自身は揺らぎ続ける真実に葛藤し続けているが、観客は彼の気持ちも傍にいる家族(具体的にはオリヴィア・コールマン演じるアン)の気持ちも分かるからこそ、胸が痛む。

 

アンソニーの行動を医学的に紐解いてみる

アンソニーが患っているのは、多分アルツハイマー認知症; ADだ。途中までアンの夫の存在があやふやだったので、DLBもあるのかと思っていたが*3、物盗られ妄想や取り繕いがあったり、昔の記憶は鮮明なのに近時記憶が失われていたり、日付や家族の顔を忘れたり、こういう特徴はむしろアルツハイマーにあるものだ。

例えば冒頭、介護人のアンジェラに時計を盗まれたのだと喚き立てるシーン。アンソニー側に立った観客は「とんだ一大事だ」と思ってしまうが*4、直後にアンが時計を見つけ出して、これはアンソニーの「妄想」*5だと分かる。これは「物盗られ妄想」といって、認知症で大変有名な症状だ。本人は置いた場所を忘れてしまっただけなのだが、何故か認知症の人々は、「見当たらないから盗まれたのだ」と一足跳びに間違った結論に飛び付いてしまう。その後時計を見つけたアンに「そんなのは僕も理解していた」と強がるのは、いわゆる「取り繕い反応」だ。覚えていないことをさも覚えていたかのように話し出す行為で、他の認知症に比べてADに多いものとされている。

 

アンソニーは元々ぱりっとした英国紳士だったようで、老いてもなお紳士然としたガウンと部屋着を着込んで生活している。イギリスらしいフラットで、大好きなクラシックを聴きながら過ごしているのも如何にもイギリス人らしい。ところが途中、彼はセーターをひとりで着ることすらできなくなってしまう。これは認知症で見られる遂行機能障害のひとつだ。アンソニーの愛する「耳に残る君の歌声」(ビゼーの『真珠採り』より)*6が悲しく響く。

 

そして、アンソニーは何故か「アンの夫」に冷たくなじられるというイメージを繰り返し思い返している。最後に至っては "アンの夫" に何度も平手打ちされ、遂には泣き出してしまう。恐らくは、この平手打ち自体はアンソニーの妄想で、ただ彼がさめざめと泣いているところだけが真実なのだろう。しかしながら、これも立派なBPSDのひとつである。認知症うつ病、ひいては罪業妄想*7を合併することは有名な事実だ。そしてその背景には、出来ないことがどんどん増えていくことへの情けなさが隠れている。ひょっとしたら「アンを困らせるな」という言葉は、実際に誰かに言われた言葉なのかもしれない。誰かが何の気なしに言った言葉のはずだが、それは回り回って、自らの情けなさに苛まれるアンソニーの心を蝕む棘と化してしまっているのだ。(因みに「いじめられる」というのも「物盗られ妄想」と同じくBPSDのひとつである)

 

極めつけはイモージェン・プーツ*8演じる介護人のローラが現れたシーンだ。「青い小さな薬を飲みましょうね」というローラの言葉に、アンソニーは突然馬鹿にするなと激昂する。これにはアンソニー側と介護人側とふたつの側面があるだろう。ひとつは介護人側の不手際だ。認知症の人々と相対する時、我々はつい子ども扱いのような態度を取ってしまうことがあるが、患者自身はひどく傷付いている。出来ないことが増えたとはいえ、本人の中には確かに尊厳が残っているからだ。そしてもうひとつが、アンソニー側の易怒性だ。ふとしたことで無駄に感情が高ぶってしまう、つまりは抑えが利かないというのも、認知症の症状のひとつである。その影には、今まで出来たことが出来なくなったゆえに苦しい、という感情が隠れているだろう(多くこの感情がBPSDの原因である)。つくづくこの映画は認知症というものをよく勉強して、作り込まれているなあと思う。

 

分かっているからこそ苦しい家族

そんなアンソニーを献身的に支えるのが、ひとり娘(になってしまった)アン(演:オリヴィア・コールマン)である。彼女はとても気の長い人物で、アンソニーの癇癪で介護人に逃げられても、出来るだけ長く施設に入らずに過ごせるようにと骨を折り続けている。本音は彼女もずっとそばにいたいのだろうが、アンソニーの症状はどんどん進行していて、(恐らくはBPSDが彼女を苦しめた挙げ句)、アンは父と離れて恋人とパリで暮らすことを選ぶ。

(※ここでヨーロッパの地理に疎い方に追記だが、ロンドンとパリはユーロスターで2時間半という距離なので、アンは移住後もちょくちょく父に会いに来ることが出来る。)

 

物語中アンソニーの妻は1度も登場しないので、きっと既に離別しているのだろう。アンには絵の上手いルーシーという妹がいたようだが、最終盤で明らかになるように、恐らくは事故でこの世を去っている。アンソニーにとって、アンは唯一の肉親だ。アンもそれをよく理解しているからこそ、できるだけ自分のそばで、父が自分らしく生きていけるように、と骨を折ってきた。ところが作中「アンの夫」がアンソニーに繰り返し迫るように、そうした生活はアン自身の生活を確かに「蝕んで」いる。父の物忘れやBPSDに晒され、本当にやりたいことを汲み取って、穏やかに暮らしていくというのは、周囲が考える以上に大変なことなのだ。

 

アンはどう見てもよく頑張っている。ある程度父の自由にさせながら、時計の場所を探し出したり、好物を作って出してやったりと、やるべきところはしっかりと父をサポートしている。周囲にはただのわがままに見える行動も、きっと娘の目を通せば本当の意図が見えて、何をしたいのか汲み取れるだろう。しかしながら、既に母はおらず、仕事を分担できるはずの妹も世を去っていて、アンはひとりでこの重労働を背負わなくてはならない。追い討ちをかけるように父はBPSDで周囲の人々を詰り続ける。父を理解してあげられるのは自分しかいないが、その父は周囲に敵対心を向け続けている。アンはきっと板挟みでひどく苦しいに違いない。

 

娘として何より苦しいのは、彼女には尊敬できるほど素晴らしい成果を上げていた時分の父の記憶があるということだ。アンソニーは元々エンジニアだったというが、アンの話では、学究心豊かな仕事熱心な男だったという。そして老いてもオペラを愛するアンソニーは、イギリス人らしい教養も兼ね備えている人物だ。亡き娘ルーシーの絵を大事に飾っている事実からも、彼が娘思いのよい父親だったことは見て取れる。そんな誇らしい父親に、どんどん出来ないことと分からないことが増えていくという姿は、娘から見て至極悲しいことだろう。

 

舞台的演出が光る作品

作品を観ながらこれはアンソニー・ホプキンズを主軸とした見事な舞台演劇だな、と思っていたが、元々今作はフローリアン・ゼレール監督が自ら書いた戯曲『Le Père 父』だったらしい。脇を固めるオリヴィア・コールマンもマーク・ゲイティスも、イギリス人らしく舞台で下積みをしてきた人物なので、1本の映画ながら、イギリスの醸成された舞台演劇を見ているような気分になる。

 

アンソニーの一人称で物語を進めることで、物語上の真実というのは、最後の最後のシーンまでひたすらに揺らぎ続ける。これは勿論アンソニーの中の「記憶」がどんどんとあやふやなものになっていくためなのだが、今作ではこれを様々な演出手法で表現していた。例えばアンソニーを中心としたカットをインサートして、その前後でアンソニーの認識する「現実」が入れ替わったり(アンがパリに行く話を持ち出した後、アンソニーの姿を挟んで、いないはずの「アンの夫」が登場するシーンなど)。シームレスに物語が違う方向に行く、というのは、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を思わせる演出だ。しかしながら、『バードマン』は元々舞台演劇を作り上げる中でのドタバタを描いた作品なので、手法自体は演劇界のものというべきだろう。実際アンソニーを主軸に物語がまるで違う方向に行く、というのは、ホプキンズの一人劇のような印象すら受ける演出である。

 

またこの映画では、左右対称に映された扉が物語の転換を示すひとつの鍵となる。同じ扉であっても、ある時はアンソニー自身のフラットに見え、次の時にはアンのフラットの扉に見える。別の時には物置だった扉が、次の機会には病院の扉に見えてしまう。これは言うまでもなく、キューブリック版『シャイニング』で使われた有名な手法だ。キューブリックがシンメトリーを好んだことは有名な事実だが、この手法がホラー映画の傑作『シャイニング』で使われたことも相まって、「廊下の奥に扉を左右対称に写す」という手法は、作品にぴりついた空気を与える演出となった。この映画でも、アンソニー自身の不安を表現する上で優れた演出となっている。

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もうひとつ、この作品は色を基点に場面転換するというお洒落な手法を採っている。例えばアンの服に観客の目を引き寄せておいて、その前後で違う話を描いたり。一番効果的に使われているのはブルーで、アンやアンソニーの服に使われたり、壁紙の色として使われたりして、シーン同士の橋渡しをしている。もうひとつアンソニーのガウンの色であるえんじも効果的に使われている。揺らぎ続ける真実の中で、ピボットのように色が使われているというのは面白い演出だ(思わず美術と衣装は誰だろうと思ってしまった)。これもある意味舞台的な演出かもしれない。

 

ラストは予想できるけれど、だからこそ悲しい

正直この作品のラスト自体は予想の付くものだ。アンソニーから見えているものは何一つ「真実」ではないので*9、きっと『ゴースト・ストーリーズ』的な場所に着地するのだろうな、と思っていたらその通りだった*10。しかしながら、結末が予想できたとしても、この作品に漂う物悲しさというのは消えないし、むしろ余計に強くなる。

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老いは誰にも不可避である。しかしながら、周囲も含めてその老いを受け止め、最後まで自分らしく生きていくには、相当な優しさと愛が必要である。アンはひとりでよく頑張った。それでもアンソニーを最後まで手元で見ることは出来なかったし、恋人に突きつけられたのは、肉親とはいえ究極的には他人だという事実だった(だからこそ互いの幸せは利害が衝突してしまう)。BPSDを抱えた人が近しい場所にいるだけに、この映画には身につまされるような苦しみを感じてしまう。しんどいけれど、よく練られていてとてもよい映画だった。今季の映画賞はホプキンズのオスカー主演男優賞で締めくくられたが、その影にいて献身的な娘を演じたコールマンについても、絶賛されるべきだと思う。

 

関連:ファーザー / アンソニー・ホプキンズ / オリヴィア・コールマン / マーク・ゲイティス / イモージェン・プーツ / フローリアン・ゼレール

*1:わざわざ誕生日を書いたのはこの設定がアンソニー・ホプキンズ自身のものに合わせられているからだ。元はフランス語の戯曲らしいが、その際主人公の名前は「アンドレ」になっていて、その英語系は「アンドリュー」である。一方コールマン演じる娘の名前は、フランス語版では「アンヌ」、映画版では「アン」である

*2:carerer; ケアラー。どうでもいいが字幕版で聞いていてふとカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を思い出した。日本ではヘルパーと言うが、どうやら和製英語だったらしい☞

*3:DLB; レビー小体型認知症と言えば幻覚で、遠野の座敷童なんかも実はDLBの症状じゃないかと言われたりする。アンに夫がいるのかいないのかという話は、アンソニー視点で描かれたこの作品では、途中まで全く分からない

*4:とはいえ筆者はなまじ知識があるので「あー物盗られだ」と冷静に見てしまう

*5:医学的な「妄想」は「誤った確診」のこと。明らかに間違いであることを、「これは真実だ!」と確診してしまうことを「妄想」と呼ぶ

*6:"Les Pêcheurs de Perles" - Je crois entendre encore.

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*7:自分は罪深い人物なのだと思い込んでしまうこと。うつ病に多い。

*8:プーツの名前を最近どこかで見たような、と思ったら『ビバリウム』だった。この作品も劇場で見損ねてしまって悲しい限り☞

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*9:導き出せる真実はあるが、アンソニー視点のものは必ずどこか歪んでいる

*10:この作品も元は舞台演劇。スケッチメイトのジェレミー・ダイソンがこういう作品を書いたので、ゲイティスもこういう作品をやりたかったのかな、と思って見ていた

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