再建首里城に関する記事を書いていて、筆者は首里城の美しい石垣に是非目を向けてほしいということをちらっと書いた。今回はその特集として、首里城公園無料エリアの見どころをご紹介したいと思う。勝手に沖縄観光をマーケティングした前の記事同様、今回も勝手に熱量入りまくりでお送りしたい。(そして多分地元民に引かれる、あなや……)
mice-cinemanami.hatenablog.com
- 上の毛エリア
- 久慶門
- 【世界遺産】園比屋武御嶽石門
- 二千円札にも使われた守礼門
- 歓会門
- 早く観られるようになってほしい、立入禁止エリア内
- 忘れちゃいけない負の歴史
- おしまい
- 191212追記:公開エリア拡大
上の毛エリア
ゆいレールの首里駅で降りて正殿エリアに行くには20〜30分ほどのお散歩が必要だが、最初に通ることになるのが上の毛公園のエリアである。正しい読み方は「うぃーのもー」というらしい。そっか「毛」というのは、「万座毛」の「毛」とおんなじか。用途については、ツナガルマップではグスクの一部、御嶽とされているが、現地にあった立て看板の地図では用途不明とされていた。立て看板が出来てから研究が進んだのかな。
www.tsunagaru-map.com - 沖縄県立芸術大学のチームが整備したウェブサイト
ちなみにこんな感じ。入ったばっかりのところは普通に木が植わっている公園なので、まだまだ沖縄の石組という感じはしない。この辺りは比較的道も平坦なので*1、散策に良さそうな公園だなあという印象。
突き当たりまで行くと……はいどん!
近くに寄ってもういっちょ、はいどん!
見て下さいよこの曲線美。台形に積まれることが多く直線的な内地の石垣とは違い、沖縄の石垣は地形に合わせたような曲線美が光るのが特徴。内地の石垣でも地形に合わせた構造は見られるが、直線を繋いで地形に合わせているものが多く、ゆるやかな曲線を繋いでいる構造はそれだけで特筆すべきものである。せっかくだから曲線美をもう1枚。
ここからはこの石垣に沿って外壁をぐるっと回っていき(丁度有料エリアの縁を回る形になる)、歓会門や守礼門方面へ向かうことになる。ぐるっと回るので色んな建物が見えるのも楽しみのひとつ。城の中へ向かうにつれて高度が出てくるので、海が見えたり、沖縄らしい建物が並ぶ住宅街が見えたりして大変楽しい。もう少し進んで歓会門が近くなってくると、隣接する那覇市立城西小学校が見えてくる。牧志駅に隣接する壺屋小学校もそうだけど、沖縄の小学校は赤瓦がふんだんに使われていて、「ああ沖縄来たなあ」という気にさせられる。というかこの城のすぐ脇に通い続けられるとかお城マニアの筆者にしてはただただ羨ましくてならない……
歩いて行くと、「遺構保存のためこちらからお進み下さい」という看板があるのも首里城ならでは。「そっかあこれが世界遺産かあ」という気分になって、石垣マニアの心が躍る(前の記事でも書いた通り、世界遺産の対象は首里城跡の遺構だ)。この時は立ち寄らなかったけれど、下側に降りていくと弁財天堂(べざいてんどう)を見ることができる。弁財天堂のある円鑑池は1502年に作られた由緒あるもので、薩摩侵攻での破壊、沖縄戦での破壊を経て復元され今に至る建物である。ここからの水は隣にある龍潭(りゅうたん)に流れ込んでいるようだが、龍潭越しに高台の首里城が見える風景は美しいフォトスポットなので、次の再建まで是非覚えておいてほしい。(龍潭は単体でも美しい池なので、今のうちでも訪れてほしいが……)
残念なことに龍潭は自分で撮った写真が無かったので、埋め込みで。こんなに綺麗なので是非足をお運びいただきたい。
久慶門
石垣の脇をすり抜けて城内へ入ってきて、最初に見える特徴的な建物がこの久慶門。実際には有料エリアから出て来て最後に通る門がここなのだが、上の毛エリアから入ると本来想定されていたルートとは逆向きに入ることになるので仕方がない。朱塗りの木造建築が石垣の上に立てられたような淑順門などとは違い、石垣の中にアーチを作って門の入口を構え、南殿同様に木材そのままの色を活かした壁になっているのも特徴である。
【世界遺産】園比屋武御嶽石門
いよいよやってきました。世界遺産・園比屋武御嶽石門(そのひゃん・うたきいしもん)である。
首里城公園内には元々いくつかの御嶽*2があったとされているが、この園比屋武御嶽は、国王が城外に出る際に必ず祈りを捧げた場所であり、琉球の中でも別格扱いされていたようである。総石造りの石門は単なる門ではなく、後ろに広がる森を御嶽と見なしてその手前に設けられたもので、国王がここで祈りを捧げる拝所であった。沖縄戦で被害を受けたが、残存した石材を元に復元され、世界遺産に指定されている。
沖縄戦で被害を受け、首里城の元々の建物が大きく損傷した中で、石造りであったことが幸いしてか原型を比較的留めたことから、世界遺産登録にまで至った奇跡的な建物である。琉球王国時代、特に神聖視されていた御嶽でもあるし、まさに『徒然草』の石清水八幡宮のごとき、是非ご覧いただきたいものである。
ちなみにこの石門の近くにはこんなに立派なガジュマルがあり、これもこれで霊験あらたかな気持ちにさせられるひとつ。
二千円札にも使われた守礼門
首里城公園の建物として正殿と並んで特に有名なのが、二千円札にも使われた守礼門だろう。首里城公園の正式ルートは、元々駐車場やレストセンター(首里杜館)から上がってくることを想定しているようなので、上の毛エリアからやってきた場合は守礼門に向かうのに一度道を逆行する必要がある。でもこれも、せっかく首里に来たなら見逃せないポイントなので、しっかり観に行ってほしい。
守礼門に掲げられている扁額は「琉球は礼節を重んずる国である」という意味だそう。首里城公園内で、園比屋武御嶽石門と並びいち早く再建された建物でもあり、琉球大学の移転前*3から復興・再建に向けたシンボル的存在とされていた。再び再建に向けたシンボルとなってしまったのは悲しい話だが、現在も守礼門までは観に行けるようなので、是非足をお運びいただきたい。
歓会門
10月の火災後、現在立ち入れる1番奥の建造物となっているのがこの歓会門。首里城の城郭に入る上で最初の門であり、その用途通り来客を歓迎する意味の名前が付けられている。元々は首里城を訪れる冊封使のために付けられた名前だというが、この城が戦闘用ではなく朝貢外交の上でのもてなしの場であったことを感じさせる。
写真で見ても分かる通り、門の脇には沖縄ならではのシーサーが鎮座している。城内あちこちに設置された案内板には、戦前撮られた写真も掲載されており、復元された櫓などを往時と比較するのもまた面白き、といったところである。
早く観られるようになってほしい、立入禁止エリア内
在りし日の復元首里城を語った前記事に対し、この記事では主に無料エリアの建物を特集してきた。しかしながら、正殿エリアの火災に伴い、安全確保などの面から、無料エリアだが立入禁止エリア内に含まれてしまっている建物がいくつかある。早く観られるように、という願いを込めて、こちらについても合わせて紹介しておきたい。
oki-park.jp - 【注意】2019年11月7日掲載 / 同年11月20日閲覧
瑞泉門と龍樋・冊封七碑
歓会門を抜けて、まず最初に観るべきは龍樋(りゅうひ)。何故か筆者の写真集からはサルベージできないのだが、天然で水が湧き出る貴重な場所で、往時は飲料水としても使用されていたという。名前に合わせて龍の彫刻から水が湧き出るように設計されており、文化的にも地理的にも興味深いところである。ちなみに首里の湧き水は確かブラタモリでもちらっと出て来た。
龍樋の脇には「冊封七碑」と呼ばれる7つの碑文が建てられている。どれも中国からの冊封使が龍樋の美しさを目にして揮毫したものと伝わっているが、残念なことに沖縄戦でほとんどが破壊され、現在あるものは拓本を基にした復元だそう(首里城公園ウェブページ)。でも7人も揮毫しちゃうくらい龍樋の水は清らかで美しい。
ちなみに筆者は1番目に付く「中山第一」の碑を、勝手に「中山が三山(さんざん)の中で1番」というドヤ顔の石碑だと勘違いしていた*4。ほんとごめんなさい。そして龍樋の写真撮り忘れていてごめんなさい。
そしてこの冊封七碑を観ながら石段を登った先にあるのが、第2の門・瑞泉門。こちらも近くから湧き出す龍樋を讃えた名前になっている。正殿エリアに至るまでにはいくつかの門があるが、どれも設計や塗装が少しずつ異なっているので、建築的違いを見ながら歩くのもなかなか楽しい(今はまだ入れないけど)。
漏刻門
瑞泉門を越えた先にあるのが漏刻門。この門をくぐると奉神門が見え、いよいよ正殿エリアまであと一歩となる。漏刻門の素晴らしいのは、朱塗りの櫓と琉球らしい石垣が両方視角に入るバランスの良さ。あともう少しで正殿エリアなのではやる気持ちも分かるところだが、このバランスの良さを惚れ惚れと実感した上で先へ進んでほしいところである*5。漏刻門にはその名の通り水時計が設置されていたというが、この門をくぐった先にも日時計があり、水時計の補助として使われていたという。
下之御庭
漏刻門を越えた先にある正殿エリア直前の広場は下之御庭と呼ばれており、ここで入園券を買って正殿エリア(御庭)へと入る。無料エリアの最後であるここにもいくつか見どころがあるのでご紹介。
まずは現在券売所としても使われている広福門。前面全面べんがら塗りの門は意外にここまで無く*6、やっと首里城の城郭内に入ってきたなという気にさせられる。
広福門の手前にあるのは、「万国津梁の鐘」のレプリカを収めた供屋。本物は先日記事で取り上げたようにおもろまちのおきみゅーにあるので、こちらも合わせて見ておきたい。
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そして奉神門の手前にあるのが、首里森御嶽。後ろに森が広がる園比屋武御嶽石門と比べるとやや小ぶりだが、後ろの木はここを御嶽と呼ぶに充分な見事さである*7。
木曳門
首里城公園の門はどう頑張っても一筆書きできないので、諦めて別に訪れてほしいのがこの木曳門。石造りの簡素な門だが、これは首里城の修復の際に木材を通すためだけに用いられ、それ以外の時期は封じられていたことに由来する。この門も立入禁止エリア内に入っており、おまけに首里城再再建という難題まで付け加わってしまったことは悲しいことだが、修復された後には忘れずにここにもお立ち寄りを。
帰り道も見逃さないで
有料エリアを観た後、さあ帰るかとぼんやり歩いてしまうのは勿体ない。右掖門から抜けた後、出口である久慶門を抜けるまでに、久慶門と奥にある歓会門の裏側を見ることができる。扁額がかけられている表側と違い、ふたつの門の櫓の構造がよく分かるので、裏側からも是非チェック……!
忘れちゃいけない負の歴史
首里城の石垣は、復元部も含め、大きな石材を几帳面に並べた曲線美が美しい場所である。そんな中、筆者が歩いていて見つけたのが、一箇所だけ積まれた石の大きさが全く違う謎の場所である。手前には「立入禁止」の柵もあり、「逆に中入れるのかな」と思わされるような空間だ。
筆者はこれを勝手に戦時中の地下壕の跡ではないかと考えている(詳しいことをご存じの方は是非教えてください)。元々首里城が戦禍で焼失したのは、日本軍が「国宝・首里城の地下なら攻撃はされまい」と考えて、首里城の地下に地下壕を掘って司令部を置いたことにあった。勿論アメリカは京都すら原爆で吹き飛ばそうとしていた国*8なので、そんな思惑など関係なく焼き尽くしたのであるが、こういう場所を見るに、今は平和な沖縄でも苛烈な戦禍に巻き込まれた時期が実在したのだと思わされずにはいられない。今でこそ人気観光地のひとつであるが、その背景には悲しい歴史があることも忘れてはならないのだと思う。
おしまい
というわけで今回の記事では首里城公園の無料エリアについて散々語り尽くした。首里城はとにもかくにも石垣が美しい名城である。正殿が燃えたくらいではその美しさはびくともしないし、見どころは沢山あるので、歓会門まででも是非観に行ってほしいと思う。ほんとあの石垣を毎日眺めて過ごしたい。そんな話をしたら普通に地元民に引かれてしまって大変悲しい。あんだけ美しいものを身近に見られるのに!
しかし、地元でもないのに首里城の正殿エリア・無料エリア、今こそ見たい文化施設について語ってしまったなんて、正直自分が怖い。最近何か自分が沖縄から逃れられない気がしてきた。普通に記事書いてたら沖縄行きたくなってきたのだが、そのお金も無いのでちょっと歯噛みしている。
筆者の個人的事情はさておき、沖縄よいとこ一度はおいで、なので、是非皆さんも沖縄へ足を運んでいただきたい。正殿はきっと再建されて戻ってくるし、今は逆に再建の過程を見られる大チャンスかもしれないし……!
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191212追記:公開エリア拡大
火災後歓会門までしか入れなかった首里城公園の公開エリアが、御庭の手前まで拡大されたようだ。御庭を取り囲む建物が焼失してしまったことは心苦しいが、足を運んだ方は、そこに至るまでの道にも目を向けていただきたいと思う。
*1:ウェブサイトにもきちんと書いてあるけれど、首里城公園は小高い丘の上に立っており、正殿エリアまではかなりの距離を歩くので、足腰に自信の無い方は車などで訪れ、車椅子用のルートを辿って正殿エリアまで到達するのがよいと思われる
*2:ウタキ。沖縄の霊場を指し、祈りを捧げる神聖な場であった
*3:前の記事でも書いたが、元々首里城の敷地内には、戦後琉球大学が建てられていた☞
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*4:琉球王国は、北山(ほくざん)・南山(なんざん)・中山(ちゅうざん)の3つを中山王の尚巴志が統一して成立させた王国。統一前3つの王国が存在していた時代を「三山時代」(さんざんじだい)と呼ぶ
*5:勿論個人的欲がだだ漏れなので普通の人は聞き入れなくていい話
*6:上の櫓がべんがら塗りでも、下は石垣であるものばかり
*7:勿論この御嶽も復元ではあるが
*8:実話。町組が碁盤の目なので、原爆の被害が分かりやすいとして標的のひとつに選ばれていた