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家族だからこそ最後まで話せない - 映画『たかが世界の終わり』

ギャスパー・ウリエルが亡くなった。スキー事故による頭部外傷が原因で、37歳だった。余りにも早過ぎる死に多くの人が追悼文を寄せている。

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ウリエルの演技は映画界でも高い評価を受けていたが、やはり筆者の心に一番残っているのは、グザヴィエ・ドラン監督作品たかが世界の終わり"Juste la fin du monde"('16)である。ウリエルが演じたのは実家と長年疎遠だった主人公の次男坊。かしましい家族の中で、心の内をなかなか打ち明けられない寡黙な主人公を、抑制の効いた演技で見せる姿は見事だった。彼の新作がもう増えないと思うと残念でならない。

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あらすじ

長年疎遠だったルイ(演:ギャスパー・ウリエル)が突然実家に帰ってきた。母マルティーヌ(演:ナタリー・バイ)はいつになくめかし込み、兄アントワーヌ(演:ヴァンサン・カッセル)は不機嫌そうに外を眺めている。妹のシュザンヌ(演:レア・セドゥ)にはほとんど兄の記憶がない。アントワーヌの妻カトリーヌ(演:マリオン・コティヤール)とは初対面で、ルイがそれほどまでに疎遠だったことに一家は驚かされる。

 

一家はルイへの接し方に迷いつつも、表面上はその帰宅を歓迎していた。しかしながら、ルイはとある大事な話を抱えて実家に帰ってきたのだった。打ち明けようとするルイだが、時間という壁が邪魔をして、なかなか切り出すことはできないのだった……

 

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※この先には映画『たかが世界の終わり』のネタバレを含みます※
 

制作の背景

この作品はフランスとカナダの合作で作られた作品だ。監督のグザヴィエ・ドランはカナダ人だが、フランス語が公用語ケベック州出身で、それ故作品もフランス語で作られている*1。2014年の映画『Mommy/マミー』でカンヌ国際映画祭審査員賞に輝いたドランの次回作とあって、ウリエルの他にも、フランスが誇る名優のヴァンサン・カッセル、本国で名脇役として活躍するナタリー・バイ、そして今をときめくフランス名女優のマリオン・コティヤールとレア・セドゥ揃い踏みという何とも豪華な配役となったのだった*2

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秘密を抱えて帰ってきたルイ

ウリエル演じる次男坊のルイは、実家のある町を出て劇作家として生活していた。彼が突然帰ってきた理由は当初隠されていたが、実は死期を悟ってそれを伝えにきたのだと分かる。ルイがゲイであることはあっさりと明かされる(因みにドラン監督もゲイであり、多くの作品でそれを主題にしている)。インサートされるルイの過去は幸せそうながらやや後悔に満ちていることから、彼の病気はエイズではないかと何となく匂わされる。実際、この作品の原作を書いたジャン=リュック・ラガルス(Jean-Luc Lagarce)はエイズで没しているので、恐らくこの推察は事実だろう。

 

劇作家という職業も、自らのセクシュアリティも、実家や地元の街から彼を遠ざけるには充分な事実だった。そんな彼がわざわざ帰ってきたには、並々ならぬ覚悟があったに違いない。地元に帰ってきた瞬間のルイはやや逡巡を持っているが、ウリエルはそんなルイを抑制の効いた演技でよく表現している。

 

かしましい家族たち

ところが、ルイが家に帰ってきて出会うのは、何ともかしましい家族たちである。息子の帰りを喜んで急場凌ぎでめかし込む母マルティーヌだが、いざ本人を目の前にすると、自分の話ばかりまくし立ててしまって息子の話を聞こうとはしない。

 

兄アントワーヌは様々なところで弟の「わがままさ」に苛立っていて、自分から壁を作っている。心の中ではずっと気に掛けていたのだが、劇作家という職業も気に入らないし、弟がいない間、大黒柱として働くことを担わされて、そこにも逆恨みのような感情を持っている。シュザンヌは寧ろルイのことを知りたいと願っているが、自分が小さい時に家を出て行った兄とは、時間が邪魔して上手く話すことができない。

 

唯一ルイの側に立つのはアントワーヌの妻カトリーヌである。彼女は常にルイのそばに寄り添い、彼が突然帰ってきた理由を探ろうとする。しかし、ルイは兄の結婚式にも欠席したほど家族と疎遠であって、彼が持って帰ってきた話は、ほぼ初対面の兄嫁にぽろっと明かせるほど軽い話ではなかったのである。

 

たかが世界の終わり』は99分の映画で、決して長い映画ではない。寧ろ一般的な映画の枠組みからいったら短い方だと思う。しかしながら、この映画を観終わった後、我々はどっと疲労を感じるはずだ。ルイは文字通り決死の覚悟で帰ってきたはずなのに、かしましい家族たちが邪魔をして、その度彼は口を噤んでしまう。ルイは主人公のはずなのに、決してこの話では主役になれない。彼をもてなすための話は、かえって彼の言葉を遮ってしまうのである。

 

ひたすらにいらいらするが、それこそがこの映画の意義だ

はっきり言ってしまって、この映画を観て最後に残るのは、何とも言えない疲労感だ。自分の話を聞いてもらえないいらいらは、誰しも感じたことのある感情だろう。あの辛さが全編にわたって続いて、挙げ句の果てに主人公は口を噤んだまま帰ってしまう。ルイに同情すれば、胸が苦しくなって、ただしんどさだけが残る映画になるだろう。追い討ちを掛けるように、この作品ではカミーユの "Home is where it hurts"(訳題にすれば「家とは傷付けられる場所」という感じ)が効果的に使われている。

 

登場人物たちが罵り合って、何の清涼感もない映画ではあるが、この映画が如実に示しているのは、この世には「家族だからこそ最後まで話せない」ことがいくらでもあるという事実だ。たまたま主人公一家は大きな歪みを持った一家だったが、こういう極端な例を引き合いに出さずとも、親しいからこそ口に出せないことは数多い。辛さを抱えたまま劇場を出て、帰り道で思い返す度に、ああ、あれもこれも……と考えることが増えていく。公開当時のレビューに、この映画はスルメ映画なのだ、と誰かが書いていたが、言い得て妙だと思う。

 

カンヌでグランプリとエキュメニカル審査員賞を獲得した映画ながら、その評価は海外でも日本でも大割れだった。ただ登場人物が罵っているだけ、何か解決することがあるわけでもない、だからといってその罵りから何かが生まれるわけでもない。この作品は何もわたしたちに伝えないのである。ただ、時間のせいで上手く付き合えない家族の騒乱を、99分淡々と見せていくだけなのだ。

しかしながら、見せられたものを思い返し、ルイのように静かに立ち去る中で、我々の心の中に何かが生まれていく。最早観た人それぞれが異なる感情を抱くだろう。それがドランの目的なのである。だからこそこの映画はスルメ映画なのだ。

 

おしまい

映画『たかが世界の終わり』はギャガ配給で2017年2月に日本公開され、約5年が経つ。ディスクは既に販売中なので、是非購入いただきたいが、くれぐれも体調の悪い時には観ないように……。この記事では割愛したが、モービーの『ナチュラル・ブルース』など、他にも珠玉の名曲が映画を彩っている*3。映画を観た後にサウンドトラックをかけて、作品を咀嚼し直すのもよいのかもしれない。筆者はウリエルの死を悼みながら、この映画を彩った曲たちを聴いてこようと思う。

 

関連:ギャスパー・ウリエル / たかが世界の終わり / グザヴィエ・ドラン / ヴァンサン・カッセル / ナタリー・バイ / マリオン・コティヤール / レア・セドゥ

*1:因みにドラン初の英語作品は2018年の『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』だ☞

*2:マリオン・コティヤールは2007年の映画『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』でアカデミー主演女優賞に輝いているが、勿論それ以外にも『インセプション』『マリアンヌ』など非英語作品でも活躍している。

 

レア・セドゥと言えば『スペクター』以来2作でボンドガールを演じたことが記憶に新しい。兄アントワーヌ役を演じたカッセルとは、フランス制作版『美女と野獣』で共演している。パルム・ドールに輝いた2013年の映画『アデル、ブルーは熱い色』で主演したのも彼女だ☞

*3:個人的にはExoticaの"Une Miss s'immisce"がとてもよかったと思う☞

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