ちいさなねずみが映画を語る

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半年間のわじわじー - 朝ドラ『ちむどんどん』

今更だが朝の連続テレビ小説ちむどんどん('22)の話をする。沖縄本土復帰50年の記念作品として作られ、沖縄出身の黒島結菜が主演の比嘉暢子役を演じた。本土復帰の年、すなわち1972年に高校卒業を迎えたヒロインが、料理人になる夢を求めて、鶴見・銀座へと羽ばたいて行く話である。

 

しかしながらこのドラマ、放送途中から脚本の粗が目立ってしょうがなかった。「#ちむどんどん反省会」タグが連日Twitterでトレンド入りするのも然もありなんな展開である。ハッシュタグが今年の流行語大賞に入ったのは流石に沖縄に失礼だと思うが(ドラマではなく)、ドラマ自体もなかなかに沖縄に対して失礼で、正直、半年間見続けるのが本当にしんどかった。キャストやものは揃っているのに、脚本で彼らの評価をここまで貶められるものなのかと思う次第である。

 

 

沖縄を扱うのはセンシティヴという自覚がない

しんどいながらも半年間見続けて、1番に思ったのは、この一言である。沖縄の歴史は軽はずみに扱えるものではなく、いつでもセンシティヴだ。それをライトな認識で描いているが故に、話が無茶苦茶になる。脚本・演出陣の頭の中には、観光地・リゾート地としての沖縄しかないのだろうか。戦災で破壊された沖縄の史跡など、そしてやんばるの美しい自然など、ただの一度も回っていないような気がする。

 

今でも異国情緒溢れる街として人気な沖縄だが、歴史的に見れば、沖縄は間違いなく「別の国」だ。15世紀半ばに中山王の尚巴志が三山統一してから、島津の侵攻後も対外的には独立した国であり続けた。何なら中国・日本双方との貿易で成功し、地理的には大変危うい場所ながら、明治の初めまで独立国家として独自の文化を発展させてきた。明治には廃藩置県の流れで正式に日本へ組み込まれるものの(この辺りの騒乱を描いたのが優子役・仲間由紀恵主演の『テンペスト』である)、琉球王国時代の文化は数多の危機を乗り越えながら今に伝えられている。

 

琉球文化を今に伝える上で最大の危機となったのが太平洋戦争末期の沖縄戦である。度重なる空襲はありながらも地上戦に至らなかった内地と異なり、沖縄は唯一地上戦の舞台となって、本島の広い範囲が灰燼に帰した。その中で首里城を含む琉球時代の史跡は大きな被害を受け、住民たちが散り散りに逃げた影響もあって、脈々と受け継がれてきた琉球文化は断絶の危機にも遭った*1。その後日本の敗戦に伴って沖縄はアメリ支配下に置かれ、現在に繋がる基地問題の発端ともなっている。物語冒頭で描かれた本土復帰は、県民たちの熱心な活動によって成し遂げられた、悲願でもあった。

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『ちむどんどん』でどこまで描かれていたかかなり記憶は曖昧なのだが、この沖縄戦から本土復帰までの歴史において、沖縄はいくつもの悲劇に遭っている。

  • 言うまでもなく、①伝統文化廃絶の危機:戦乱において職人も散り散りになり技術継承の難しい時期ができたこと、またその中で貴重な文化財がいくつも焼失・破壊されたこと*2
  • ②言語としての沖縄語の危機:(どこで読んだかど忘れしたが)出稼ぎ労働先で沖縄語を禁じられるケースは多々あったといい、内地の日本語と更に同化した結果が現在の沖縄方言なのではないかと考えられる*3*4
  • ③島全体としての貧困*5:これは現代日本においても横たわる問題である。離島で隔絶されていることもあり、配送費用が嵩めば当然物価は割高になる。内地との行き来のハードルもあり、教育の問題も大きい。基地問題も度々クロースアップされるが、そこに依存する雇用の問題もあり、一朝一夕には解決できない。

確かに沖縄の海はとてもきれいだが、沖縄の抱える歴史は、その海のようには美しくはない。暢子が旅立つ日の本土復帰だって、沖縄の人々が血の滲むような努力をして勝ち得たものだった。復帰のその日、記念式典が行われた那覇市民会館には、雨模様にもかかわらず会場の外まで多くの人が詰めかけた。そういった歴史に、この作品はまるで目を向けようとせず、ヒロインは沖縄には何もないのだと言いながら東京へ出て行くのだ。

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東京に出て行くのが幸せなのだろうか

自分の地元・宮城が舞台の『おかえりモネ』を観て、続いて『カムカムエヴリバディ』を観て、今作を観て、ふとこう疑問に思ってしまった。朝ドラの定石として都会に出て行くヒロインが描かれがちだけれど、本当に東京へ出て行くのが幸せなのだろうか、と。実は大ヒットした『ちゅらさん』にも途中東京のシーンが挟まれているのだが。

 

今作の場合、舞台が沖縄、それも本土復帰直後とあって、東京へ出て行くハードルは今の何倍も高い。そんな中で暢子は、沖縄は好きになれない、東京で料理人になりたい、とだけ述べて、住む当てもなく旅立っていく(正確には兄を当てにしていたが当てが外れた)。高校生の暢子に地元が美しく見えないのは多少しょうがないが、にしても、全てが唐突だ(「そうだ京都、行こう。」じゃあるまいし……)。脚本陣は沖縄から東京に行く道を少しでも考えたことがあるのだろうか? 鶴見と銀座を往復する時間を考えたことは?

そうやって一生懸命出て来た中で、暢子は立派な料理人になるのかと思いきや、折角覚えたイタリアンの腕を活かすこともなく、結局は沖縄料理屋を開いて終わる。彼女が沖縄から出て来た意味というのが最後まで潰されて終わるのである。正確には結婚だけはするが、相手とは幼少期に出会っているし、東京に来て再会する意味もあまりない。和彦ならば遅かれ早かれ沖縄にはまた来そうだし、そこで再会してもよかったのにね。

 

地元繋がりで『おかえりモネ』と比較するが、モネが東京へ行く理由は明確で、気象の楽しさを教えてくれた朝岡(演:西島秀俊)の会社へ向かうためだった。(その時だって気仙沼登米で震災のことをひたすらに考え続けるモネだっていいんじゃないかと思っていたのに。何も東京に出て行くことだけが幸せではないのに。) モネは東京で働きながらも震災の闇を抱え続け、最終的には故郷に貢献したいと気仙沼へ戻っていった。暗いテーマを抱えながらも、ある種の地元愛を丁寧に描いた作品だったのである。果たして今作ではどうだろうか。本土復帰50年記念作品と言う割に、沖縄の歴史であるとか、風土に対する愛が微塵も感じられない。暢子がただひたすらにときめきで動いており、その行動の必然性も、特段描かれずに流されてしまう(次の段の①に繋がるが)。

 

失礼が過ぎるシリーズ

各方面に失礼だとは言われていたが、まとめてみたら結構だった。

①沖縄の人々が適当と言わんばかり、他にも

本当にこれに尽きる。身近な地元民が1番無理だと言っていたのはニーニーこと賢秀(演:竜星涼)だったが、彼の思いつきに比嘉家はずっと振り回され続け、その度にお人好しの母・優子(演:仲間由紀恵)はなけなしの金を貢ぎ続ける。最早機能不全家族の極みだ。暢子も例に漏れず結構な思いつきで猪突猛進するし、ふたりとも衝動性の塊でしかない。なんくるないさァ」で済ませようとするな沖縄県民が毎日そう言ってると思ったら大間違いだぞ。

 

また、放送中から言われていたものの、比嘉家の人々は結局どこか自分勝手で、自分たちさえ幸せになれればそれでよい、というような脚本になってしまっている。暢子が東京の親戚に引き取られる話を急にキャンセルして、家族皆で幸せになりますと言われたって親身にはなれない。定期的に借金問題が立ち上がるが優子はいつまでもお人好しである(戦災の過去を描いても納得しきれないほどに)。歌子の話はぞんざいに描きすぎて、最終的に智の前でだだをこねるだけになっている。暢子の結婚に至っては、諸々の描き方が適当なせいで、結局ただの略奪愛になっている。イタリアンの話は前にも書いたが、料理人として育ててもらった恩を感じているシーンはただの1度もない。

 

加えて、距離感が色々とバグっている割に(お金が無い割にみんなよく東京に来る)、当時の沖縄を田舎として描き過ぎという問題が残っている。昔ながらの伝統が残る島ではあるが、良子が嫁ぐ石川家とのすったもんだと、大叔父・賢吉(演:石丸謙二郎)が優子に再婚を迫るシーンは、流石に度が過ぎるのではないかと思わされた。良子を深掘りして結婚しても尚働き続ける女性の姿を描けばよいのにステレオタイプなほどに封建的な石川家と、夫・博夫(演:山田裕貴)のうじうじする様をこすり続ける。肝心な働く女性のモチーフは暢子に取って代わられ、子育ての様子は描かれずに中途半端に飛ばされるのだった。優子の再婚話も、未亡人として必死に働きながら家計を支える優子を描けばよいのに、賢秀の詐欺話やらですったもんださせられた挙げ句、あれである。再婚相手として名前が挙がる善一(演:山路和弘)は暢子の親友・早苗の父親であるのに、早苗はこの話にまるで登場しないどころか、その母は都合良く殺された形になっている。あのなあ、『真田丸』のナレ死はそこまでキャラクターを魅力的に描いてきたからこそ話題になったんだぜ。

②登場人物の使い捨てが過ぎる

はやみねかおるも「夢水清志郎」シリーズで小説内で人物をきちんと描ける人数の限界とは……と話していたような気がするが*6、この作品においてきちんと描かれ切ったのは、恐らく暢子ひとりなのではないかと思う。こんなにごちゃごちゃになって誰一人描き切れないのなら、やんばるやら鶴見やらフォンターナやら舞台を飛ばさずに、のんびり沖縄だけ描いておいてくれ。

 

このドラマの1番よくないところは、突然描きたいネタを見つけると、そのネタにばかり注力してしまって、そこまで強烈に出ていたキャラクターをふいっと捨ててしまうことである。職業婦人・良子の奮闘は石川家とのごたごたの中に埋もれてしまったし(知らない内に家族のハワイ旅行代が貯まるくらいには頑張っている)、賢秀がふらふらしているせいで割を食う女はいるし(優子と猪野清恵(演:佐津川愛美))、歌子の歌は変にこすられる割に本編では実に適当な扱いである(後述)。

やんばる編で三大不憫と言えば、良子に恋し続けたラブ♡アンドピース✌️の喜納金吾(演:渡辺大知)と、歌子に強烈に迫り続けた音楽教師・下地(演:片桐はいり)と、まもるちゃん(演:松原正隆)の3人であろう。金吾パイセンは最終週にいい感じに再登場したからまだ許すとして、後ろふたりは本当に不憫でならない。片桐はいりにあれだけ強烈な動きをさせておきながら、歌子へ強引に迫った後下地はあっさり転任していって姿も見せず、肝心の歌子は「病がちで」と言い訳しながら全く歌おうとしない。強引に出しておいてばっさりと斬り捨ててしまうなど、片桐はいりに失礼としか言えない演出である。

一方まもるちゃんに至っては、彼のような人物*7が生きていけるあたたかいコミュニティであることは見て取れるものの、それならば演出上彼の姿をもっと押し出さなければただ空気のようにいる人物になってしまう。最もひどい演出だと思ったのは、最終回、静かに手を合わせるまもるちゃんに対して、ガレッジセール・ゴリ演じるタクシー運転手が冷やかすシーンである。まもるちゃんの過去はもっと早くに明かされているべきだし(最終回で放り込むなど何とも投げやりだ)*8、二重の意味でこのドラマにいるべきゴリに言わせる台詞として大変不適切である*9

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もうひとり筆者が不憫でならないなあと思ったのは、鶴見沖縄県人会長の妻・多江を演じた長野里美である。三谷幸喜に見出され、『真田丸』で大河ドラマ初出演以来映像の仕事も以前より増えた彼女だが、元々は小劇場を中心に活躍していたベテラン舞台女優である。そんな彼女がちょい役でいい訳もなく、ましてや片岡鶴太郎演じる三郎と仲睦まじく生活しているのに、暢子にフォンターナのオーナー大城房子(演:原田美枝子)と夫の昔話を掘り返されていい訳もない。暢子の結婚式で琉装を貸し出すなど、鶴見の母として慈愛に満ちた姿を見せていたが、そういう風に描くのなら、もっと面倒見のよい姿を沢山描けばよいのに、と思う。

 

③今ツボな曲の使い方なら安部礼司に学んでくれ

ドラマの開始直前特番で、歌子や賢三の唄三線が作品を彩ります、と喧伝されており、実際に『唐船ドーイ』を大森南朋が弾き語る姿や、歌子役の上白石萌歌三線を練習する姿などが公開されていた。ところがどっこい、実際の作品で沖縄らしい曲が取り上げられることはほとんどなく、代わりに『椰子の実』や『翼をください』がこすられる始末。後者は確かに時代なのだが、どこが「唄三線が作品を彩ります」なのか。今ツボな曲の使い方なら安部礼司に学んでくれ。

 

歌子が物語の前半こすりにこすっていた『椰子の実』は、愛知県の浜に椰子の実が流れ着いた話を柳田国男から聞いた島崎藤村が書き上げた詩である。決して沖縄の歌ではない。亡くなった父・賢三を思い出す歌として使うのならばまだましだがそうでもなく、おまけに日本語の文節を無視して変なところに切れ目のある歌い方をさせているのも気に食わない*10スペシャルで上白石は『ひょっこりひょうたん島』を見事に歌っていたので、あの変な歌い方は恐らく演出なのだろう。

 

 

先日放送された特番で、良子役の川口春奈が家族で『芭蕉布』を歌うシーンがお気に入りと話していたものの、この曲は1965年に発表された比較的新しい曲である。それでも『椰子の実』がこすられるよりは大分よいが。

芭蕉布

 

個人的には、この物語の流れならば『てぃんさぐぬ花』を何度も使う方がよほどよかったのではないかと思う。1番の歌詞は親の教えをしっかりと肝に銘じなさいという内容である。急死した賢三の姿を後半であんなにこするのならば、同じタイミングで『てぃんさぐぬ花』を流し、親の言葉を胸に生きるきょうだいの姿にすれば、なんぼよかったことだろう。

てぃんさぐぬ花や / 爪先に染みてぃ / 親ぬ寄し事や / 肝に染みり

(訳:ホウセンカの花は爪先に染めて / 親の言うことは心に刻みなさい)

 

話は脱線するが、中原中也の詩の使い方も結構酷いと思った。和彦の母・重子(演:鈴木保奈美)の愛読書として唐突に登場し、暢子との結婚を巡って母子の歪んだラブレターのようにキャッチボールされるのが気持ち悪い演出だ。そんなにやりたいなら森博嗣みたいに毎作の章立てへきちんきちんと使ってくれ。中也に失礼であろう。

 

④使い捨てされる伝統文化

沖縄の歌の話は前段で書いたが、もうひとつぽんと出て来て終わってしまうのが、優子の過去編で取り上げられる琉球舞踊とジーファーである。優子過去編は「脚本家変わったんか」と言われるほどの名シーンだったのだが、どっかでジーファーの話でも読んで突然突っ込んだのだろうか、と邪推してしまう。突然出て来ていなくなる名優ふたりも相まって(遺骨探しに邁進する津嘉山正種、そして優子の姉のジーファーを届けに来る草刈正雄)。

 

沖縄戦の遺骨収集に邁進する嘉手苅を演じる津嘉山正種は、自身も沖縄出身であり、俳優活動と並行して沖縄戦の戦禍を伝える活動に勤しんでいる(類作の『海辺の生と死』では主人公の父役を演じていた)。キャスティングにどこまで意味があるかは分からないが、草刈正雄の父が当時日本に駐留していたアメリカ兵というのは戦後の動乱期を思い起こさせる事実である。ジーファーを受け取った優子が数十年ぶりに家族の前で舞うシーンがあるが、実は琉球舞踊は元々仲間由紀恵の特技である。そういった過去が相まって、この週だけは目を見張る出来になったのかと思う。ところが、これだけのシーンを作り上げておきながら、そういった熱量は一瞬で失われてしまい、また元の動乱に戻ってしまう。最終的に、よかったシーンの記憶はただの1週間で終わってしまい、沖縄であることの必然性がないシーンばかり重ねられることで、全体としては「使い捨てされる伝統文化」というイメージになってしまうのだった。

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おしまい

『ちむどんどん』というのは「心がわくわくする」という意味だそうだが、半年間観ての感想は、中盤暢子が言っていた「心がわじわじーするわけよ」(=いらいらする)、という言葉に集約されてしまった。筆者も決して沖縄出身ではないけれど、登場人物に愛を持つとか、責任を持って話を描ききるとか、文化をしっかり学ぶとかして、もっとましな描き方がいくつもあったのではないかと思わされてしまう。今年は沖縄の本土復帰50年という節目の年であって、そういう年に作るドラマとしては、あまりに沖縄へ失礼だったのではないか。今でこそ観光地、リゾート地として大人気な沖縄だが、その背景には辛酸を嘗め続けた苦難の歴史がある。そういうものに光を当ててこそ、本土復帰50年記念ドラマなのではないか? そういう意味で、『おかえりモネ』は評価されたのではないか? 復帰50年に合わせて様々な催し物や番組を見て、色々学びも多かったけれど、今作から感じ取れたことはほとんどなかったように思う。

 

何より、作品自体がこういう評価を受けてしまうことにより、キャスト陣にその汚名が降りかかることが何とも可哀想でならない。主演の黒島結菜は同年代俳優の期待の星でもあって、ゆくゆくは母・優子を演じた仲間由紀恵のように、沖縄県を引っ張る女優のひとりになるのだろうに。行き当たりばったりな脚本を続けるうちに、キャストたちにもそういうイメージが付いてしまうことなど、脚本・演出陣は一度たりとも考えたことがないのだろう。近年の視聴率問題を差し引いても、やはり朝ドラは女優たちの登竜門だし、多くの人の目にとまる作品なのだ。全国で熱心に誘致活動が行われているのも事実である。そういうことを制作陣には身に沁みて感じてほしいと思ってならない。

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そういえばどうでもいいけど破水から始まるお産みんな大好きですよね〜陣痛の定義とか勉強してね〜

 

関連:ちむどんどん / 朝の連続テレビ小説 / 朝ドラ / 沖縄本土復帰50年

*1:後述する今村治華氏のジーファーに関する本にも、戦乱当時伝統文化の職人たちが逃げ惑い、その中で細々と技術を守っていたことに触れられている

*2:内地の大本営判断のせいで、唯一地上戦に巻き込まれて独自の文化が壊滅の危機に瀕した側面もあり、「なぜ内地のせいで琉球文化がここまで被害を受けるのか」という言説を読んだこともある(例によって典拠を忘れたが)。

*3:ちなみに『プロジェクトX』で取り上げられた平成の首里城復元プロジェクトの話を読んでいて、沖縄戦直前の首里の人々がここまでごりごりの沖縄語を喋っていたのかとびっくりさせられた(冒頭に当時首里中生だった人物の回想がある)。同年代の沖縄人も全く読めないでいた。

*4:因みに島国・沖縄は本当に島単位で言葉が違うのだが(本島と八重山は最早別言語の域である)、本島でも南北で言葉が異なっていて、やんばるの割にやんばるぽい言葉を喋っていない、という指摘はなされていた☞文春オンラインReal SoundHUB沖縄。方言指導もしたあまゆ店主役の藤木勇人は、黒島結菜の話し方に糸満らしさがあったことを認めつつ、「当時やんばる地域で使われていた方言を忠実に話すと、おそらく私でも意味がわからない言葉が多いと思います。なので沖縄北部のみなさまにはご理解いただき、私流の「ウチナーヤマトグチ」ということばを駆使させていただいてます。「ウチナーヤマトグチ」は沖縄の方言と標準語が混ざった話し方なので、聞き取りやすいんです」と話している(NHKウェブサイトインタビューより)。/筆者のついった反応はこちら

*5:ここに関しては父・賢三(演:大森南朋)が出稼ぎに行っていたシーン、夫を亡くした優子(演:仲間由紀恵)が必死に働くシーンで描かれてはいたが、、、

*6:主人公で三つ子の長女・亜衣は小説家志望だが、そんな彼女が「〇人称ならきちんと描けるのは〇人……」という話をするシーンがあったように思う☞

*7:知的障害なのか緘黙なのか詳細は明かされないが、唯一の台詞は「やんばるちむどんどん」オープン時の「まあさんやぁ」だけで、言葉を発さず村の力仕事に勤しんでいる

*8:というか優子過去編はその前にやっているのだから、まもるちゃんの話はそこでちらっと出しておくべきだった

*9:沖縄を舞台とし、その後第4弾まで続編が作られたヒット作『ちゅらさん』において、ゴリは主人公・恵里のダメ人間な兄を演じていた。このことから出演に際して本人は「「初代ダメにぃにぃ」として賢秀を見守ってきました。そしてついにダメにぃにぃ同士の出会い。(もちろん『ちゅらさん』の恵尚役ではありませんが)。他人とは思えない同じ何かを感じました」とコメントしている(Real Sound)。一方で、序盤にハンバーガーショップ店長として出ていた相方・川田も含め、ガレッジセールのふたりは本土復帰の年に生まれたいわゆる「復帰っ子」である。川ちゃんのわるーい役はまあまあ回を重ねていたので目をつぶるとしても、そういう背景のあるゴリを出すのに、「喋らない」まもるちゃんを揶揄するような台詞を言わせるのは本当に不適切だ。

*10:「故郷の岸を離れて」の部分で、文節に従えば「はーなれて」とスラーで歌うべきところ、「は、なれて」と歌うところが何度も放送された

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