ちいさなねずみが映画を語る

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静かでうるさく、うるさく静か - 映画『コーダ あいのうた』

土曜日に公開されたばかりほくほくの『コーダ あいのうた』"CODA"('21)を観てきた。タイトルは失聴者の間に生まれた子どもを指すアクロニムで*1、聾者一家の中で唯一健聴者の主人公が、ひょんなことから歌に本腰を入れていく様が描かれている。アカデミー賞前哨戦のひとつ、サンダンス国際映画祭で観客賞を獲得するなど、今年の賞レースを賑わす本作。"CODA"を主題に据えながらも、その物語は誰の人生にも引きつけて考えられるようなものだった。……正直うっかり泣き腫らしたので、明日職場で両目がお岩さんみたいなやつがいたらそいつが筆者です。

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あらすじ

マサチューセッツ州グロスターに住む高校生のルビー(演:エミリア・ジョーンズ)。彼女は家族で唯一の健聴者で、父フランク(演:トロイ・コッツァー)・兄レオ(演:ダニエル・デュラント)の営む漁業を助けながら生活している。高校生活のある日、彼女は気の迷いで合唱部に入ることに。そこで出会ったミスター・Vことヴィラロボス(演:エウヘニオ・デルベス)は、彼女の歌の才能を見抜いてマイルズ(演:フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)共々バークリー音楽院へ合格させるためのレッスンを積ませる。しかしながら母ジャッキー(演:マーリー・マトリン)は、娘が音楽大学に行くことに大反対するのだった……

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※新鮮な気持ちで映画を観たい人は続きを読まないで下さい※

静かでうるさい世界

作品の冒頭、船で沖へ出たロッシ一家が漁に勤しむ中で、ルビーはラジオから流れる曲に合わせて力一杯歌っている。音量は恐らくわざと少し大きめにミックスされていて(というかこの作品の音楽は大体少し大きめにミックスされている)、初めからインパクトのある展開だ。その後は歌の合間にルビーが父や兄と手話で話すシーンが入り、ふたつの異なる世界が映し出されることになる。

 

しかしながら、手話の世界でありながら、ロッシ一家の世界は、何とも「うるさい」。漁場で3人はかなりスラング混じりで話しているし、ルビーはうっかりすると病院で父親のいんきんたむしについて手話通訳させられる。ミスコンで健聴者に勝って父親が惚れ込んだという母ジャッキーも、かなり情熱的な人物で、ルビーはそんな母のアグレッシブさに若干引いている。傍から見るロッシ一家はまったく静かな家ではない*2

 

そんな様子を見ながら、ああこれは静かでうるさい世界なのだな、と思い返していた。これは筆者のオリジナルではなくて、以前NHKで放送されていた聾学校のドキュメンタリーのタイトルである(性格には『静かで、にぎやかな学校』だが)。聾者には手話という言語があるが、音声を介さないながら、その言語はすこぶるにぎやかなものである。聾者だって勿論喧嘩はするし、スラングはあるし、我々と同じ内容を全く違う言葉で話しているだけなのだ。インテリならばインテリらしく、漁師ならば漁師らしく、そういったことは健聴者と全く変わらない。実際この作品を手掛けたヘダー監督も、(ジャッキーを演じる)マトリンのジョークセンスは結構汚いし、漁師町の妻なのだからそれに見合う内容があるのだ、と話している(PARKRECORD.com)。

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"CODA"だからこその悩み

口から出す言葉に拒否感を

何とも「うるさい」家庭で育ち、漁場でも大熱唱するほど情熱的なルビーだが、"CODA"であるゆえの悩みも数多く抱えていた。沖ではあれだけ大きな声で歌っているのに、人前で歌うのは恥ずかしい。それには、"CODA"であるが故に、小さい頃から「発音が変」だとか「家族が変」と詰られてきた過去があった。後者はただの偏見と揶揄で片付けるとしても、近くに話し相手になる健聴者が乏しかったルビーにとっては、口から言葉を出すことをためらわせるに余りあるエピソードである。だからこそ、ルビーはあんなに美しい歌声を持っているのに、人の目の前で歌うことにかなりの拒否感を抱いているのだった*3

 

一家の「耳」として

そしてもうひとつ大事なのが、一家唯一の健聴者として、家族の「耳」になることである。ルビーが毎朝漁船に乗り込むのも、万が一の際に無線を聞き取れるように、そしてそれを通訳できるように、という意味合いである。両親の通院だって、当局の規制に父兄が憤る時だって、法廷審問だって、家族の事業だって、ルビーの存在は常に頼られ続けている(もっとも法廷でもルビーが通訳している演出はやや批判されているが)。母ジャッキーに至っては、バークリーに進学したいという娘に対して、事業を興したばかりの時に何故そんなことを、と、反対条件にまでこの事実を使ってしまう。

 

そういう環境にあって、ルビーは恐らく、子どもらしく甘えるということをどこかで忘れてしまったのだと思う。父フランクが言う通り、彼女は「ずっと昔から大人だった」のだ。家族を深く愛しているし、何だかんだその行動はとても献身的である。自分がいなくなれば通訳の役割がいなくなって、家族がどれだけ困るかということもよく分かっている。だからこそ、彼女はひどく思い悩む。

 

この記事を読む人の多くは"CODA"ではないはずだ。しかしながら、ルビーの悩み自体は、家族を献身的に世話する人ならば、誰しも抱く感情だろう。例えば高齢の家族を介護している人だとか、病気の家族を抱えている人だとか。家族唯一の健聴者、という主題そのものは特異な設定のように扱われているが、その実描いているのは、大切な人に何かを捧げる人々の普遍的な感情である。だからこそ、この映画は多くの人の心に語りかけるのだと思う。

 

劇中、ヴィラロボスに指名されたマイルズとルビーは、コンサートで披露するデュエット曲を練習することになる。曲目はマーヴィン・ゲイとタミー・テレルが1968年に発表した "You're All I Need To Get By" だった。ヴィラロボスの言う通り、歌詞はラブソングのそれなのだが、愛の唄に聞こえて、実際には人生を誰かのために捧げる優しさに触れている曲だ。そういう意味でもこの曲を象徴的に使ったのではないだろうか……

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'I'll sacrifice for you / Dedicate my life to you
I will go where you lead / Always there in time of need'

(拙訳:あなたのために犠牲になれる、人生全て捧げられる

あなたの導くところへどこへでも付いていく、必要ならばすぐ駆けつける)

——"You're All I Need To Get By"

 

人には人の地獄がある

ルビーのデュエット相手でヴィラロボスに目も掛けられているマイルズ。彼を演じているフェルディア・ウォルシュ=ピーロは、『シング・ストリート』で主役のバンド少年を演じて銀幕デビューした人物で、正直今回も彼目当てであったところはある。いやでも、公式サイトにはもうちょいちょい役みたいな感じで書かれていたけれど、がっつりメインキャストの一角やんけ……!

よしなしごとはさておき、劇中ふたりの間に大きな壁が横たわるシーンがある。マイルズは平謝りするが、家族を貶められたルビーはすぐには彼を許せない。にもかかわらずマイルズは「君の家族はうちと違って幸せそうだし」と話して、余計ルビーの心を逆撫でるのである*4

www.youtube.com - 問題のシーンはこの後

 

マイルズの無遠慮な発言で思うのは、「人には人の地獄がある」といういにしえ事である。マイルズの家は裕福で、楽器をいくつも弾けるような英才教育を受けているが、両親はいがみ合っていて彼は孤独を感じている。一方で、ルビーの家はお世辞にも漁業で成功しているとは言い難く、おまけにルビーは"通訳"の健聴者として大人にならざるを得なかった人生だが、何だかんだ家族はお互いを愛し合っている。幸せも悲しみも人それぞれ、そういうこともこの映画には込められている。

 

無音の瞬間、胸に迫るもの

この作品に登場する歌唱曲はわざとやや大きめにミックスされているが、それと正反対なのが秋のコンサートのシーンである。マイルズとルビーが練習の成果を披露し、"You're All I Need To Get By"をデュエットするところで、突然全くの静寂がインサートされる。ロッシ家の人々がこのコンサートをどのように見ているのか分からせる見事な演出だ。映画館に流れる完全な静寂。ティッシュを取る音も、鼻を啜る音も許されないような静けさ。全員スクリーンの方を見ているはずなのに、周りがみんな胸を詰まらせて、必死にじゅびじゅびという鼻音を抑えているのがよく分かる、そんな瞬間だった。

 

あの静寂の中で、主人公たちにまつわる様々なことが想起される。娘が音痴だったらどうしようと心配する母ジャッキー。交際相手になったガーティー(演:エイミー・フォーサイス)に周りの様子を教えてもらうが、実際どうなのだろうと考えている兄レオ。そして娘の出来について、周りの表情を見て読み取ろうと考えている父フランク。ルビーの見事な歌も、歌声という意味ではこの家族に届いていないのだ。音のある世界とない世界。ふたつを隔てる大きな壁を自覚させられる、見事な演出だったと思う。

 

人生を両面から見つめると

この作品でもうひとつ象徴的に使われているのが、ジョニ・ミッチェルの名曲『青春の光と影』"Both Sides, Now" である。映画界でも多くの作品で使われているので言うまでもない名曲なのだが*5、最終シーンでの使い方が白眉であった。

 

ルビーが『青春の光と影』を練習するシーン自体はかなり前の方から何度もインサートされていて、最終シーンで彼女がこの曲を選ぶことも想像には難くない展開である。受験シーンの設定はやや強引なところもあるが、そこは最終シーンなので置いておくとして、2階席に家族の姿を見つけたルビーは、咄嗟に手話付きでこの曲を歌い出す。最初は緊張から強ばった声で歌っていた彼女も、手話を付けることでのびやかな声を取り戻し、成功に繋がっていく。

 

悲しみを持った曲として使われることも多いこの曲だが、本作ではルビーが羽ばたくための曲として使われている。ルビーの人生と重ね合わせられるのは、3番のサビの台詞、「人生を両面から見てみたの」という部分だ。彼女は"CODA"として口語と手話というふたつの言語を持ち、咄嗟に両方を使って歌うことで、本来のルビーらしい歌声を披露する。天職とも言える歌唱を、異なる言葉で"両面から見てみた"からこそ、あの展開になるのだ。『青春の光と影』の歌詞は、そんな彼女の羽ばたきにぴったりである。

"I've looked at life from both sides now
From win and lose and still somehow
It's life's illusions I recall
I really don't know life at all" - from "Both Sides, Now"

 

ふたつの言語を使うのはルビーだけではない。彼女の旅立ちの日、別れを惜しむルビーに対して、父フランクがただ「行ってこい」"Go."と声を掛けるシーンがある。これまでずっと手話のみで話してきた父からの "Go." という短い声掛け。これもまた見事な演出であるなと思った。

 

おしまい

『コーダ あいのうた』はギャガ配給で2022年1月21日公開。主題こそ聾者家族の中で唯一の健聴者として献身的に振る舞う女子高生の話だが、その中身はどんな人の人生にも引きつけられるものであった。ルビーの歌う劇中曲に加え、『ムーラン・ルージュ』や『ラ・ラ・ランド』を手掛けた作曲家モーリス・デ・ヴリースの書き下ろしたスコアも含めたサウンドトラックが発売中だ。是非映画と合わせてお楽しみいただきたい。

 

関連:コーダ あいのうた / エミリア・ジョーンズ / シャーン・ヘダー監督 / フェルディア・ウォルシュ=ピーロ / トロイ・コッツァー / マーリー・マトリン / ダニエル・デュラント / エウヘニオ・デルベス

*1:"Children of Deaf Adults"のアクロニム

*2:因みに、家族の名前を見ているとこの一家はイタリア系であることが推察されるが、そういうラテンの血が騒いでいるという見方もできる

*3:そんな彼女を歌の道へと導くのがメキシコ人のヴィラロボスなのは意図的な演出である

*4:ところでフェルディアくんのこの役、何か『シング・ストリート』みがあってまたおんなじような役やってるなと思う

*5:有名どころで言うと映画『ラブ・アクチュアリー』でエマ・トンプソン演じるカレンが涙するシーン辺りだろうか。後はTBSドラマ『カルテット』でも、満島ひかり演じるすずめがひとりストリートでチェロを弾くシーンにこの曲が採用されている。

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