もう1本観たのは『17歳の瞳に映る世界』"Never Rarely Sometimes Always"('20)。ペンシルベニア州に住む女子高生が予期せぬ妊娠に直面し、中絶のためニューヨークへ向かうという、これまたロードムービー的側面のある作品だ。この作品は原題の意味丸潰しな邦題でどきどきしてしまうのだが、原題が登場するのは中盤の1回のみなので、分かりやすい邦題でよいのかもしれない。
プロライフとプロチョイスの対立を前にして筆者が思い出すのは、パイソンズが『人生狂騒曲』で披露した "Every Sperm is Sacred" である。「全ての精子は尊きもの」とでも訳せるこの曲は、キリスト教、中でもとりわけカトリックが、自慰と避妊を容認しないことを痛烈に皮肉ったものだ。そのため、ペイリンとテリーJが演じる夫婦は、28人も子どもがいて貧困に喘いでいるのである*3。"Every Sperm is Sacred" というタイトルも、"Every Thing is Sacred" という賛美歌があるのをおちょくっている。なお、パイソンズのお膝元であるイギリスはプロテスタントの国なので(ヘンリー8世のせいで!)、避妊に関してはわりかし肝要な宗派である*4。
そんなロンドン五輪の開会式には、シェイクスピアの『テンペスト』から一節を引いて、"The Isles of Wonder"(不思議の島々)というタイトルが与えられていた。開会式のテーマにもなった『テンペスト』の一節を朗読する任を与えられたのが、イギリスが誇る舞台俳優の要、サー・ケネス・ブラナーである。日本では『ハリー・ポッター』シリーズのロックハート先生で広く知られる彼だが、本来は英国の舞台演劇において、特にシェイクスピア劇を得意とする俳優である。その活動はイギリスに留まらず、近年では自ら監督・主演するポワロシリーズの映像化にも主体的に取り組んでいる。この開会式では、イギリス鉄道の父イザムバード・ブルネルに扮し、イギリスが誇る作曲家・エルガーの『ニムロッド』を背景に朗々とした朗読を見せたのだった*2。
閉会式のこのシークエンスは、人間大砲として発射される宇宙飛行士(?)が、イギリス史を振り返る格好をした人々と握手していくところから始まる(後ろの曲はELOの"Mr. Blue Sky"だ)。しかしながらこの人間大砲は見事に失敗し、人々はあーあとため息をつく。そして、発射され損ねた宇宙飛行士が下から這い上がってくるとエリック・アイドルに変わっており*5、パイソンズ一成功した曲 "Always Look on the Bright Side of Life" を歌うという算段だ*6。
"[Verse 3] Life's a piece of shit (Oooh) When you look at it Life's a laugh and death's a joke, it's true (Oooh)" - via genius.com
ロンドン五輪閉会式では、アイドルがこの曲を歌う背景で、パイソンズのスケッチ(コントのこと)に因んだ演出が成されている。アイドルの後ろに控えている羽根の天使たちは、多分『人生狂騒曲』ラストシーンのオマージュだ。因みにパイソン作品は女性の描き方が著しく酷いことで有名である。唯一の女性レギュラーだったキャロル・クリーヴランドは、いつもぞんざいに扱われては「これが唯一の台詞なのに!」"It's my only line!"と絶叫していた。映画第4作の『人生狂騒曲』では、避妊と中絶は悪だと説くカトリックを揶揄して、"Every Sperm Is Sacred"という狂った曲を歌い踊っている(しかも書いたのはパイソンズの良心ペイリンとそのスケッチメイト・テリーJだ)。そのシーンを思い起こさせるように、後ろにはスケート靴を履いた尼僧たちが映っている。インド風の踊りが入ってアイドルが困惑するシーンがあるが、パイソンズには中国人を揶揄した "I Like Chinese" という曲、アラブ人を揶揄した曲 "Never Be Rude to an Arab"もあり、テレビの本放送時代なら、ここでインド人を揶揄するネタをやるところだと思わされずにはいられない(インドはかつてイギリスの植民地だったので)。よくよく見ればパイソンズの有名なスケッチ「まさかの時のスペイン宗教裁判!」"Nobody expects Spanish inquisition!" を思わせる人々もいるし、多様な人々を並べているようで、実はパイソンズのスケッチを思い起こさせているのだ。
9年前、アイドルが颯爽とロンドンのスタジアムに現れた時、パイソンズのネタはあんなに不謹慎だったからけしからん、と思った人もいたにはいたと思う。しかしながら実際には、会場中から "Always Look on the Bright Side of Life" が聞こえてきて大合唱になった。やはりこれはこれ、それはそれなのである。
先程筆が滑ってガールズパワーの話を書いたが、この話は良くも悪くもディズニーなので、話の流れがどこか現代のポリティカル・コレクトネス(political collectness)の中にあるような気がする。例えばアーティというキャラクターはディズニー実写では初のオープンリー・クィア*1なのだが、『美女と野獣』のル・フウの人物設定しかり*2、アーティしかり、ということで、両者は同じ話の流れにある。しかしながら、残念なことに舞台は1960年代〜70年代のイギリスだ。イギリス社会は今でこそLGBTQの人々に大変寛容だが、この頃は露骨にホモフォビアがはびこっていて、アーティのような人物が自由に生きていけるような社会ではなかったはずである。勿論彼のような人はいて、自分のブティックを開いて生きていたかもしれないが、『パレードへようこそ』さながら投石だの落書きだのが横行して*3、あんな綺麗なディスプレイが保てたかどうか怪しいものだ(因みに『パレードへようこそ』は1984〜85年の話)。またこの時期は『空飛ぶモンティ・パイソン』のテレビ版が放送されていた時期でもあるが、パイソンズのメンバーであるグレアム・チャップマンが途中までゲイであることをひた隠しにしていたのも有名な事実である。その後チャップマンは著名なゲイの人権活動家(gay rights activist)になったが、それでもパイソンズのスケッチにはゲイを茶化すものがいくらでもあるし、そこからは容易に当時の空気感が読み解ける*4。ほぼみんながバイセクシュアルだったろうと知っているクイーンのフレディ・マーキュリーだって、生前は自身のセクシュアリティについて決して明言しなかったし、当時はそういう時代だったのである(因みにフレディは91年没)。
『101匹わんちゃん』では躍起になってダルメシアンの毛皮を集めていたクルエラだが、実は『クルエラ』ではただの1枚もダルメシアンの毛皮を得ようとしない。途中でダルメシアン柄のスカートが登場して、観客はみんなヒエッとなるものの、その直後にバロネスの愛犬3匹が揃って登場して、あれはただのブラフなのだということが分かる。『101匹わんちゃん』であんだけご執心だったクルエラなら、恨んだ相手の犬くらいなめしそうなものだが、そこはディズニー映画なので、ということなのだろうか。エンドロールの "no animal harmed"(動物は傷付けられていません)という言葉が滑稽だ*6。そう言えば「動物は傷付けられていません」って出てくる伊坂作品は『陽気なギャング』だっけ?